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  • アレゴリー立気さんの日記

  • 1-10/10

アレゴリー立気さんの日記

  • 2010

    12月

    18

  • 偉人を美化する偉くない人々

     私は他者を美化することが好きではない。なぜなら何度も述べるように都合よく解釈することで自己の行動を正当化するからである。尊敬する人物とは言うが結局は自分に置き換えられる。偉人の行動や思想は大衆という愚者の自尊心を向上させるが(なぜなら偉人の思想は正しい、センスがあると信じて疑わないからである。)別の観点から見れば間違いを犯しているといっても過言ではない。たとえば歴史上の偉人ならば聖徳太子、織田信...


  • 2010

    12月

    16

  • 私の好きな人と嫌いな人

    誰であれ好きな人と嫌いな人がどうしてもでてくる。これはどうしようもないことである。よって自己分析を行うことである程度の類型化をするに至った。私の好きな人と嫌いな人である。   好きな人                 嫌いな人 (1)信念のある人々           信念のない人々 良い意味でひねくれており特定の文化圏のイデオロギーと何度も衝突をしている経験はあるが自分なりの揺るぎ...


  • 2010

    11月

    28

  • 手段としての表象 目的としての表象

     私はあらゆる「表象文化」が表現そのものを表象するのではなく手段としての表象になっているかのような気がするのである。今までは表現者が表現そのものを表象すると考えていたが近年それが怪しくなってきたのである。大袈裟に言ってしまえば全てのカルチャーはプロパガンダの安売りであり大衆の願望充足投射に利用されている手段(昇華)でしかないように思われる。たとえば大衆はペルソナ思考な「表象文化」を好む。知的な自分...


  • 2010

    11月

    24

  • ソクラテス的解釈 無知の肯定 真理の否定

     ソクラテスはギリシャの哲学者であったとされる人物で実在したかどうかは不明だが「世界史」の教科書にもでてくるため著名な人物であったと言える。ソクラテスは生前本をまったく書かなかったため弟子のプラトンの本の中での登場人物として初めて認識されたのである。ソクラテスは形而上学的病に犯されておりあらゆる出来事を疑ってかかったが理解しようとはしなかった。ようするにソクラテスにとって答えをだすことより問題提議...

    アドルノ的解釈 非同一性からの同一性芸術否定アプローチ

     さきほどの日記で価値概念を2つの概念に選別した。一つは「交換的価値」でありもう一つは「使用的価値」である。「芸術とはなにか?」を考えたときまず「交換的価値」は排除されると言っていい。「交換的価値」は儲けることに重点を置くわけだから儲かればいいわけである。流行に合わせたファッションや娯楽は当然該当されるが俗に言うサブカルチャーという抑圧を売り物にしている文化や「芸術」を売り物にしている専門学校や大...


  • 2010

    11月

    23

  • マルクス的価値論 物神化の魔力!

     「マルクス主義」とは資本主義の疎外(雇用者が資本家の提起したシステムに支配されシステムの奴隷と化す)によって唯物論的(観念より物を重視する思想)な弁証法(従来のシステムと反発するシステムがシステムを妥協し合うことで次のシステムを産出していく過程)が起こると考えそれを反復することで社会主義が到来するであろうと推測した一連の理屈である。マルクスは資本主義における価値観を「交換的価値」と「使用的価値」...


  • 2010

    11月

    22

  • サルトルに学ぶ実存的日常生活

     先駆的な概念の意味はその文化圏によって異なっている場合がある。だがその文化圏における物事の意味は即に自明的なものになっておりそれなしに日常生活を送ることは困難であると言える。たとえば「椅子」は座るために存在するものであり「トイレのビデ」は肛門にお湯をかけることで糞の産出を促進する本質があると誰もが思って疑わないはずである。 それにもかかわらず物の本質を真っ向から否定し実存的な生き方をアプローチ...

    ユング的無意識から見る観念論的友情論

     人は社会的動物であるため自分の存在だけでは生きていくことが困難であり自我同一性(アイデンティー)もまた他者の存在なくして成立はしない。またその文化圏や時代における善悪とは他者の思想、行動を模範することによってでしか産まれない。普遍的な善悪などそもそも存在しえないのであると考えるのが筆者の見解なのである。 ところがそれとは正反対な理論を提唱した心理学者が過去に存在した。カール・グスタフ・ユン...


  • 2010

    11月

    21

  • ハーバーマス的解釈 開示>呈示コミュニケーション

     共同体で生活するあらゆる人物を悩ます形而上学的問いこそ「コミュニケーションとは なにか?」という問いであると思われる。この問いに絶対的な答えはない。ただし巷で 使われている「コミュニケーション」とはそこまでご立派なものと言えるのであろうか? このことが私をこの世に生を受けてから現在に至るまで悩まし続けてきた疑問なのである。 さまざまな社会的組織には暗黙のルールが存在しており、そのルー...

    フッサール的見解 ノエマ/ノエシス的世界観

    私は今パソコンの画面の目の前に存在しキーボードを打ち文章をエクリチュールしている と私自身は考えている。だが、それは誠か?本当か?真実と言える根拠はどこにありますか? 物的根拠はどこにもないのである。では何をしているのだろうか? フッサールの現象学的にはノエマ(私)という媒体(人間の身体としての機能)を通して ノエシス(エクリチュールされた文章)が志向されているのであって、実世界にパー...


  • 1-10/10

アレゴリー立気

ゲストブロガー

アレゴリー立気

“とくにないです。”