2008-06-10

『いのちの食べかた』、現代日本の絶望 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 日曜日は夕方からGAIA御茶の水のイベント「古本カフェ」の一環として上映される映画を観に行った。これまではずっと京王新線〜都営新宿線で神保町まで行っていたのだが、料金がぐんと安くなり時間的にもそれ程かかる訳ではないようなので、今回は初めて代々木上原から千代田線で新御茶ノ水まで行った。

 http://www.gaia-ochanomizu.co.jp/shop/

 結果、15分前後余計にかかるものの、車内も空いていたし正解だった。これからはこの方法で行こう。

 観たのは『いのちの食べかた』(原題“Our Daily Bread”、監督:ニコラウス・ゲイハルター、オーストリア・ドイツ、2005年)。

 http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/

 バックミュージックもナレーションも一切なく、ひたすらに淡々と高度に工業化・能率化・大規模化された「食糧生産」の過程と、「食糧生産」に携わる人々のあまり美味しそうでも楽しそうでもない食事の様子が映し出される。「食糧生産の過程」なんて言うとピンと来ないだろうけど、すなわちそれは、ビニールハウス内や屋外での畑での収穫や農薬散布の様子だったり、牛の帝王切開の様子だったり、孵化したばかりのヒヨコの機械による分別・出荷(オスはその後「処分」されるはず…)の様子だったり、狭いケージに押し込められた雌鳥の様子だったり、赤ちゃん子豚の麻酔無し去勢(?)の様子だったり、何十頭もの種牛から順々に精子を採る様子だったり、乳房に搾乳用の機械を着けられた雌牛の様子だったり、そして何よりも、機械化・分業化された工場で黙々と行われる、鶏・豚・牛の屠殺(殺害)と解体の様子だったりする訳だ。特に殺されたばかりの「同胞」が吊るされているのを目の当たりにしながら、牛が脳天をショットガンで撃たれる光景には言葉を失う。そのうちの一頭は「イヤだ!イヤだ!」とショットガンを撃たれまいと声をあげながら抵抗していたが、最後にはあえなく殺されてしまった…。

 具体的な映像で説明すると↓のようなシーン。とは言え『いのちの食べかた』の映像の方がリアルで印象も圧倒的…。

 http://saisyoku.com/slaughter_cow.htm

 少し寝不足気味だったものの、予想通りのショッキングな映像の連続に凍り付いたように見入ってしまった。
 
 世界には現在66億人もの人がいると言う。このような膨大な数の人口を養うためには「食糧生産」の工業化しか方法がないのだとも言われる。恐らく『いのち』のホームページからでも取ってきたのだろうが、GAIAで貰ったパンフレットにもそれが「現代社会の実情」と書いてあった。

 しかし本当にそうなのだろうか?飢餓か「食糧生産」の工業化かという二者択一は、例えて言えば1か100かの選択を迫るものではないか?

 改めて、一般に流通している工業化された「食糧生産」方式に基づいた、鶏・豚・牛の肉や鶏卵や牛乳を口にするのを止めようと、すなわちヴェジタリアンの食生活を続けようという思いを新たにした。

 同じく日曜日の秋葉原で真っ昼間に起こった通り魔事件。七人の方が亡くなり十人の方が重軽傷とのこと。

 言うまでもなく今回の容疑者の行動はどうしたって正当化され得るものではないが、容疑者が青森の実家から遠く離れた静岡で派遣会社借り上げのマンションに住み、交代制で自動車部品の加工と組み立てに従事していた派遣労働者で、「生活に疲れ、世の中が嫌になった」と供述しているとの記事をネット版の新聞で読み、無差別殺人を実行する程に自暴自棄になった容疑者の絶望を思い、陰鬱な気持ちになった。

 いくら私が社会現象を政治・経済・社会の構造から読み解く立場に立つとは言え、今回の事件全てを「社会のせい」だとして、容疑者を擁護することは出来ない。しかし他方で全てを「自己責任」として片付けてしまうことをヨシとしない者としては、容疑者が、組合や政党あるいは社会運動等、希望の無さや鬱積をぶちまけたり、あるいは社会全体の問題として共有し問題化していく「場」を見出すことが出来なかったことを、やはりよく考えなければならないのだとも思う。

 今回の事件でサバイバルナイフが凶器として用いられたことを受けて福田首相や町村官房長官は銃刀法の規制強化の必要性には言及したそうだが、社会構造の転換の必要性に言及する政治家はいないのだろうか。

 本当に憂鬱だ。

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知世(Chise)

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