2015-07-16

アートの政治的有用性について このエントリーを含むはてなブックマーク 

 別にこんなことを書くのは、それほど気が乗らないのではあるけれど、しかも、以下の文章が理性の面からの論理的な批判ではなく、どちらかというと感情的で印象論的な違和感の表明にしかならないかもしれないと思いながらも、おそるおそる書いてみる。

 書き出しからもう印象論になってしまうが、町おこしのような目的で行われるアートイベントが多すぎないだろうか。発案が安直だから、美学的な柱を組み立てられずに、集客の多寡のみがイベント成功の基準にどうしてもなってしまっていないか。町おこしということは人を多く呼んでナンボなのだから、そこの論理は間違っていない。しかし、アートというのは、それほど多くの観客を一度に満足させられるほどのエンターテインメント性を持ったものなんだろうか。「これがアートなんですよ、どうですか、けっして難しくないでしょう」と観客をミスリードしていないか(とはいえ、難しさと高尚さを混同しているスノビッシュな態度もかなりどうかと思うけど)。その程度の催しだったら、例えば企業の気まぐれで自社の存在を誇示するために建ててしまうような、なんとかミュージアムの無意味なアトラクションとかわらないのではないか。そういうものが前提となっているとしたら、アートとそれ以外の価値を分つ基準はどこにあるのか。僕は、芸術の価値は実利に回収されない部分にこそあると、自分の制作活動を規定しているのだが、実利の全くない作品というものはないのだとしても、上記のような目的の方にのみに傾いたイベントや作品ばかりでは、より重要な何かが決定的に欠落してしまっているんじゃないか。
 目的重視型の催しとの関連で僕が懐疑的なものに、リレーショナル・アートという種類の作品がある。これはアーティストの発案による予め準備されたプログラムに観客を参加させ、その全体の共同作業自体を含めて作品の完成とするという寸法らしいのだが(あまり興味がないから、違うかもしれません。論文でもないので調べません)、それは中心に鎮座するアーティストの支配のもとで、観客がその予定調和とともに想定内の振舞いをするという、言ってみれば中央集権型政治のミニチュア版みたいなものだ、と僕は感じる。それとの類比で述べるなら、今回の安保法案の強行採決の理不尽さにいらだち、声を上げる人々の中にアーティストがいて、もし上記のような活動に関わっているのなら、あなたもその批判対象と同様にふるまっているぞ、と五寸釘を2,3本でも刺してやりたい。社会の縮図として観客参加型の作品を、もしくはアートイベントを企画している人々の実際の政治への無力さといったらどうだろう。広告やら商業デザインやらの従事者もまあ、ひどい。大衆に無価値な情報ばかり与え、自分で考えるという能力を奪っていることの執拗な継続が、いつまでたっても政治や社会問題の解決力が成熟しない原因なんじゃないか。そんなことを言いつつ、僕はテレビをよく見る方だが、それは完全に受動的な状態で情報に接するという快適さを、意識的に自分に与えることで、何も考えない時間を自分に与えるためだ。だから、何も考えないというのはとても楽で快適なことは認めるが、そこにつけ込んでろくでもない感性を押し付ける広告産業に怒りを感じる。それは美大のデザイン科に通っていたときから変わらない意見だ。

 安保法案に話を戻すと、今更になって騒ぐ人々の無責任さと無知に、なんだか呆れてしまう。そもそもは、国民投票という改憲のための正規のプロセスを踏まず、民意を置き去りで、それこそ強行的に憲法の解釈を変えたということが一番の問題だったのに、その点を争点にして反対活動をしている一般の人が少ないように思う。集団的自衛権の是非については、また別の問題としてしっかり議論すればいいと僕なんかは思う。この土壇場になって憲法学者の大多数が違憲であるとしたその結果を拝借して、つまり受け売りの主張で民主主義の否定だとかを今更言うってどうなんだろう。1年前の事態がより具体的なかたちで顕在化しただけじゃないか。
 それと関連もしていることだが、広告代理店の仕事(だと思う。違うとしたらどこかのデザイナーだろう)で気に入らないことの一つに政治運動のバックアップというものがある。最近違和感を感じたのは、「安全保障関連法案に反対するママの会」の記者会見だ。会見の内容は彼女らの真摯な主張であるだろうから尊重するというか別段気にしないけれど、会見のテーブルの前面に貼られたメッセージと背景の壁紙が必要以上にきれいにデザインされていたのがどうも引っかかる。あれはプロの仕事だ。ああいった市民の活動にまで入り込んでくるデザインというものの浅薄さと傲慢さには呆れてしまう。僕が持つこの違和感に通底するものが昨今のアートについても確実にある。それが冒頭に書いたことだ。だから、僕は基本的には、特に国内に限ってはアートの政治的有用性を認めない。個人が確立しない状態で、なんでもかんでも社会の役に立てようなんて、傲慢でしかないし、自己の存在の脆弱さをより大きなフレームに投影することで、屈折した自己肯定感を得ようとしてるだけだと思う。

 どうせ究極的には民意はないがしろにされる選挙というものが多く棄権されれば、主権在民という視座からすると、それだけ政府の振舞いに根拠がなくなり説得力もなくなる。その状態を1回経験してみるのもよいのではないかな、なんて適当に考えてみたりして。それこそ僕が無責任か。

追記:「安全保障関連法案に反対するママの会」はロゴやチラシ、ポスターのみならず、WEBも含めての視覚的なプロデュースが完璧に施されているようです。広告マーケティング的な手法に不自然さと強い違和感をおぼえます。

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菊地良博

ゲストブロガー

菊地良博

“宮城県在住 美術家/実験音楽家 ”