2008-08-27

境界で互いに傷つけあうこと(S)セックスと政治とサバイバル(泣笑) このエントリーを含むはてなブックマーク 

監督がJ.A.ロメロの大ファンだということで、社会批評的な読みをしてもいいんじゃないかと思い、そのつもりで観たんだけど、まずはそれについて書く前にもっと直感的なことからレビュー。

映像と音響のテンポは普通にちゃんと練られていて、冗長さがない。「これからどうなっちゃうの?」「そうきたか!(あちゃ~)」という意外な展開もあれば、「あ、ああっ!ほんとうにそれやっちゃうの?!」「ぎゃあ~!本当にやりやがったコイツ!」みたいな「予測できてしまうがゆえに痛い」展開もてんこもり。絶望と恐怖とが波のように寄せては返し、観客の自分も、劇中のヒロインと同じようにガクガク震えが止まらない状態になる。しまいにはいったい何が怖かったのかすらよくわからなくなってる自分がいた。ただ「何か」が怖かったことだけは確かだと思う。

第二作『ヒットマン』も必見だなこりゃ。

『フロンティア』の最初の舞台はパリ郊外。日本人の私たちの記憶にもまだ新しい、あのパリ郊外の暴動のさなかから事後の時間帯で映画は展開していく(そういえば今年に起きた西成の暴動の顛末はどうなったのだろうか、テレビでもネットでも報道規制がけっこうあったみたい)。

フロンティア という言葉には「国境」という意味があり、劇中に出てくる標識はこの意味だ。ちなみにアメリカで「フロンティア」と言ったら「フロンティアスピリット=開拓精神」を指し開拓のことが思い起こされる。この「開拓」は、森を切り開いて荒野を耕すイメージそのままに「未開人を征服して合理社会を打ち立てる」という意味を歴史的に負っている言葉だ。

物語のなかでまず最初に犠牲者になるのはパリ郊外の暴動で話題になった移民の若者たち。「移民」とは国を追われた人たちのこと。主役グループの一人が、テレビを見ながら言う「フランスもじきにアメリカになる」。この言葉は一面的な絶望に過ぎない。けれどもリアルな絶望であるという点では無視できない。

私たちは中国人や朝鮮人を町中で見かけ、クラスメートとして接したり同僚として働いたり、親戚が恋愛したり結婚しようとしているのに、移民が移民であることを忘れようとしてはいないだろうか。誰もがみんなそうだとは言わないけど。多民族性って何なのかという議論が一部でしか行われないということがアメリカ化だとすれば、日本もまたアメリカ化している。たぶんフランスよりも徹底的に。

国内をほぼ「開拓」しきったアメリカが第一次世界大戦後に国際社会に乗り出した頃から、英語と国際経済が合理社会を支配するようになった。一次大戦でも敗戦国だったドイツや他の「出遅れた」国々では自国・自民族の利益を守る力が強く求められ、ファシズムやナチズムが支持を集めていく。フランスは第一次大戦では形式上の勝利を得たけれども、戦争で産業が疲弊し経済的にアメリカに大きな借りを作り、第二次大戦ではナチス・ドイツに征服される。フランスはつまり歴史的にアメリカとドイツに蹂躙された国なのだ。

アメリカは元々「移民の国」だ(実は様々な国々が遡ると移民の国なんだけど、日本も、たぶん)。「原住民」を追いやって、アフリカから奴隷を引き連れた白人たちが征服して打ち立てた国だ。『フロンティア』の冒頭で語られるのと同じ「人間は自由だ」っていう言葉を叫びながら、自分たち「文明人」の自由のために未開人を蹴散らし、隷属させながら打ち立てられ、そして今でも運営されているのがアメリカだ。ちなみにヨーロッパから見てアメリカ「大陸」を開拓した先にある、ハワイ諸島の、そのさらに先に日本の列島が横たわっている。「ここ」もまたフロンティアなのだ。

こういった「対」開拓の闘いや国境の緊張感の問題は、アメリカの国内でも、アメリカ化されるフランスでも、アメリカ化される日本でも、アメリカが覇権を掌握していく世界のどの国でも、忘れられがちな「ごく一部」の問題にすぎない。しかし、どの国、どの文化圏でも問題になっていることだ。世界的に見れば小さな問題ではない。その問題に『フロンティア』は原題からして触れている。『フロンティア』の原題は『FRONTIER』ではない。『FRONTIER(S)』なのだから。

ナチの元将校らしき「パパ」のドイツ語まじりのぎこちないフランス語、そしてもっぱらフランス語を話すその子供たち。そして「純血ではない」のにヒロインが長男の妻に迎えられ、彼女が長男の子ではない(そして彼らにとっては「誰の子かもわからない」)子を身籠っていることが問題にされず、むしろ歓迎されていること。ここでは歴史に残っているナチの思想がすっかり堕落している。しかし政治経済の世界では、常に思想は堕落したかたちで実現される。リアリティの世界では、堕落した思想こそが機能する。その意味ではこの描写はきわめて適確なのだろうと思った。そこでは、形骸化して利用されるだけの一貫性を失った形式と、誰が利用しているのかもわからなくなったテンションだけが、グダグダになりながら持続していく。日本でもアメリカでも、民主主義の世界では誰でもが親しんでいる状況じゃないか。

ナチが恐ろしいのは、そしてナチ化しつつあるようにも思われるアメリカが恐ろしいのは(そして世界中がアメリカ化するのが恐ろしいのは・仮にアメリカが厳密には本当にナチ化していないとしても)、「純粋な」政治経済の要請の前に仕方なく、「沈着冷静な」職人の手つきでもって、残酷な仕打ちが実行されることが、あたかも正しいかのように、いや「正しいこととして」認められていくからだ。

いったん「正しいこと」として認められた道理は、疲弊しきった人々の投げ遣りな生活のなかでどんどんグダグダになっていく。その投げ遣りさの快感と、投げ遣りになった暴力の凶悪さ。

スプラッタ映画を見る人なら誰でも知っているように、残酷な行為を目の当たりにすることには病みつきになるような快楽が伴う。それは映画の確かな快楽の一つだ。そしてそれは要するにメディアがもたらす快楽の重要な一要素だ。これを利用したのがナチス・ドイツで、そしてアメリカもいまこれを利用している。お金を払って映画を観て、テレビの広告に取り巻かれて日々の買い物をしている人たちはこのことを覚えておくべきだ。仮にすぐに何もできないとしても。「覚えておくべき」と言われても忘れてしまうだろうけれども。

ところで、一人の人の精神には(その人に「精神」があるならw)男性的な部分と女性的な部分が同居している。英語で考えるとわかりやすいのだけれど、男性=Man=人間だが、対して女性=Woman=?というわけで、女性というのは「男性=人間」とはちょっと違うものとして考えられている。だがどんな男性も完璧に自分の非人間性を捨て去ることはできない。非人間性を捨て去ろうと努力することはできても。

もう一つ、Man=人間じゃないものと考えられている性質がある。それは子供だ。「子供はやがて大人にならなくてはならない」という表現がある。「大人になる」というのは英語では「Become a Man」。つまり大人になっていない人間は、まだ十分に人間になっていない存在とされている。まして、ちまたでよく目にする表現で「妊娠した妻は人が変わったみたいになる」という言われ方もある。妊娠中の女性は、子どもとセットになって二重か三重に「非人間的な存在」として決めつけられる。

立派な人間になったと自任できるような男性たちは、彼らはあまり認めたがらないようだけれども、非人間性を捨て去ることができない。彼らが体現する「人間性」が、もし「非人間性」を完全に捨て去れるようなものであったとしたら、何千年と続く人類の歴史の中でそれは勝利をおさめ、現代はもっとずっと合理的で快適な世界になっていただろう。でも実際は違う。まだ人間性と非人間性は闘いを繰り広げている。ナチもアメリカも、フランスも日本でもそうだ。

正しさを目指す欲求と、その欲求から何かを引きずり降ろそうとする欲求との闘いだ。どちらかが正しいという問題ではない。そしてこれはおそらく決着がつかない。人は死ぬ。恐怖や痛みに怯えてしまうし、理想を叶えられないことがある。叶えられない理想を抱かされ、それを信じるしかない、と信じることしかできないときがある。そして信念の力で、何かを実現してしまうこともあるのだ。この何かを実現してしまう「信念」は、正しさだけを目指していては手に入れられない。正しくないかもしれないが、「正しいかどうか」という疑念を捨ててでも実現しなければならないという自己暗示がどうしても必要になるのだ。

「立派な人間」たちは、この信念を象徴するものとして女性と子供を利用してきた。「正しいかどうか」という疑念を捨て去る理由として、恋愛や家族、そして血統(家系や民族、そして国家)を持ち出すのだ(あるいは、それらを守るために必要なものとしての「金」)。その限りで、立派な人間は常に女子供を必要とする。否定し罵倒し蹂躙する癖に、「守る」ための「弱い」存在として女子供がどうしても必要なのだ。
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『フロンティア』の主人公は、だから妊婦である必要があった(ホラーやスプラッタやミステリでは女性が重要な役割を負うことが多く、そして大概そのほうが面白い、気がする)。ここにも複数化された境界線がある。妊婦における、女性と子供の曖昧な境界線からはじめて、女子供と立派な男性の境界線、移民とフランス人(つまり移民と「正当な国民」)との境界線、フランス人とドイツ人との境界線、そしておそらくこれらのいくつもの境界線に類似している現代の世界に無数に存在している境界線……。いくらタイトルに絡んでいるからといって、これが「主題」だとは考えられないけれども、この把握しきれないほどの境界線というか裂け目に世界中が覆われ、人々を引き裂いているんだなと思うとまたこの映画の恐ろしさもひとしおである。

『フロンティア』が感動的なのは、登場人物の誰もはっきりとはヒロインのお腹の子供を殺そうとしないし、またヒロイン自身も自分のお腹の子供を守るために戦うとは言わないことだ。自分の子供のために、と言うのは別の人たちであることは重要な意味があるだろう。中絶を迫る男に怒り、しかし出産することに深い不安と迷いも感じている主人公。妊娠しているがゆえに主人公集団のなかではただ一人、命を助けられるが、これは仲間たちを惨殺した悪人たちに取り込まれることも意味している。ヒロインはそれを撥ねつける。迷い続けながらも、虐げられながらも、肉体も精神も生き続けようと思う意思の強烈な美しさ。ちなみに「意志の勝利」はある女性監督がナチの大会を題材にした、有名で美しく感動的なドキュメンタリー作品のタイトルだ。

映画のラストが悲しいのは、彼女たちがいったい何のために戦っているのか、そしてこの映画で描かれている時間帯のあとに、彼らがどう生きていくのか、それが想像を絶しているからだろう。その意味で劇中の音楽が一転して物悲しいものになり、スプラッタ映画とは異質のニュアンスが生じてくるあたり、監督は相当に意識的であると思われる。そしてスタッフロールで流れるエンディングテーマ曲で歌われる言葉。「私は怪物だから、あなた私を殺してよ」。それが英語で歌われていること。
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「何にせよ生き延びられたのだから、お腹の赤ちゃんも無事だったし」と誰が彼女に言えるのだろうか。だがそう言わなければならない、のかも知れない。果たして私は何が「怖かった」のだろうか。今でもよくわからない。
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ちなみに予告編にも登場する老婆が豚脂煮込みを食べるシーンだけにしか登場しなかったのは残念だった。あのお婆さんが戒めを引き千切って第三勢力として戦う(殺人一家の次女らしきあの娘と一緒に)という展開もありだったんじゃないだろうか。

あと携帯の着信音が面白かった。

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永田希

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“生きるって大変!←って書くのは簡単。ここにヒントがある気がします。”


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