2008-08-30

映画『実録・連合赤軍』を観て考えたこと このエントリーを含むはてなブックマーク 

 昨晩(28日(木))も飲み過ぎ。とは言え今週に入ってからは、以前のように夕方まで寝倒れてしまうことなく、十時過ぎには起床。また研究に打ち込めるようになりつつあるからか。しかしお腹の調子悪し。

 午後下高井戸シネマへ。観たのは『実録・連合赤軍ーーあさま山荘への道程ーー』(制作・監督:若松孝二、2008年)。三時間超の大作。

 http://www.wakamatsukoji.org/top.html

 受付で平日の午後にも関わらずほぼ満員と聞いてやや怯んだが、何とか最前列の端の席を確保。

 男女問わずに言論ではなく暴力による「総括」を強要して暴行し、その後傷の手当もせずに屋内外に縛り上げて死ぬまで放置する、場合によっては即刻首を絞めてあるいはナイフで刺して処刑してしまうという、「粛正」シーンが続出する中盤一時間は観ているのが精神的に辛かった。

 しかも「自己の共産主義化」の不完全さや「革命戦士」の資格を問う等といった「大義」を表向きは理由としてはいるものの、実際にはその多くは自分より美しい者への同性としての嫉妬や怨恨、あるいは権力欲に基づくもの。そうであるにも関わらず、他のメンバーもそれに反対する判断力や勇気を失っている。

 サブリーダーである永田洋子(並木愛枝)にその美しさを妬まれた遠山美枝子(坂井真紀)が、自分の顔を自分で殴って「壊す」ことを強いられた後、治療もされずに柱に縛り付けられ、トイレに行くことも許されずに失禁して他のメンバーから罵倒され、正気を失ってうわ言を言いながら亡くなるシーンは特に観るに耐えなかった。

 特に前半の随所で、彼女が革命の「大義」を心から信じて目をキラキラさせていたことを考えると…。

 しかし、そもそもは公正で自由で民主的な社会を作るために始まった運動がどうしてこんな末路を辿ることになってしまったのだろうか?(不思議にその後浅間山荘に立て籠った際にはメンバーは「正気」を取り戻すのだが)

 上映終了後若松監督と永田洋子役の並木さん等出演者四名が登場して小一時間のトークショーがあった。若松監督の話は高齢だからなのか、今一つ要領を得ず、ややがっかり。少なくとも後述するような僕が聞きたいような話ではなかった。並木さんの、永田が見せたような「狂気」は我々誰もが持っているものだというコメントと、森恒夫役の地曵豪さんの、この種の「粛正」は、殆ど全ての武力に基づく少数精鋭の政治運動に、例えば少し毛色は違うが新撰組などにも、見られる現象だというコメントが印象に残った。実際その通りだ。

 個人的に気になったのは、ああいう「粛正」を引き起こす「狂気」(あそこまで極端な形でなければ、日常的に目にすることが出来るものだと思う)とそれを止める勇気の欠如は一体何に原因があるのかということ、後者に関して言い換えれば、どうしたら「狂気」を止める勇気を持つことが出来るのかということ。

 と言うのも、ああいう先鋭化した運動の「狂気」を目の当たりにして、政治とは縁を切り、非政治的な個人主義や穏健な保守主義(ただし世界の現状を眼を見開いて見つめた上でも、そんな立場が正当化可能なのかはどうかはさておき)に「転向」すべきだとは思わないから。

 一つには、武力で体制を打倒して権力を奪取し、上から一気に社会を変えるという発想それ自体に問題があった。

 また最近の僕自身の研究・思索テーマに引き付けて言えば、「自己の共産主義化」を連呼しながらも、自他関係を専ら敵対的・競合的なゼロサム関係としか見ることが出来ず、また(権)力を実体的なものとして誰かが独占すべきものではなく、人々の関係から生み出される相依的で過程的なものとして捉え返すことが出来なかったことにも原因があったように思う。こちらはメタ・レヴェルのことだが、とても重要なこと。

 自分自身を振り返り、周囲の人々に対するネガティヴな思いを克服する必要性を改めて痛感した。

 夜はもの凄い雷。今夏一番では。

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知世(Chise)

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