2008-08-30

まるで夢のように、とらえどころが無い愉しみ このエントリーを含むはてなブックマーク 

 

◆まるで夢のように、とらえどころが無い愉しみ
〜夢のまにまに クロスレビュー〜

「夢のまにまに」とは、本当に巧く付けたタイトルだと思う。劇中で主人公の木室が買う銅版画のタイトルが「夢のまにまに」。それが映画のタイトルでもあり、内容をほぼすべて表している。「まにまに」という語感も律動も美しい。

 映画そのものは、夢のようにとらえどころがない。映画学校の校長となった老先生・木室(長門裕之)。その妻であるエミ子(有馬稲子)の、日常を描きつつ、映画学校の学生、村上の少々常軌を脱した行動や言動を描き、過去の自分や、妻の姿、友人たちを思い描き、学校に通う途中の旧い大木で休む、その姿を描く若い銅版画家を描く。これでもか!というくらい淡々と。
 
 時間や空間は映画の中で自由だ。その自由さをよく知っている監督、木村威夫氏は、旧い日活の映画などでおなじみの美術監督としてその名を知られている。かくいうボクも、映画学校出身ゆえ、その名も、その作品も眼にしたことが多々あるが、まさか齢90にもなって、長編映画デビューとはまったく驚いてしまう。驚いてしまうがしかし、先にも書いたようにこの映画は、時間や空間を自由に行き来する。自分がいま生きているこの時間と空間は、本当にいま自分が生きているんだろうか?そんな夢でも観ているようにとらえどころの無さを、破綻無くキッチリまとめてあるあたり、さすが新人監督でも90歳!。
 
 とはいえ、そのとらえどころの無さ、軽やかに移動する空間や時間に対して、登場人物たちが抱えるモノは果てしなく重くて大きい。木室とその妻は、戦争中にイロイロあったらしい。そのイロイロを抱えて悶々としたり悩んだりしている。若い学生村上は、自分の悶々や悩みに耐え切れず、自ら精神や肉体を滅ぼしてゆく。それらを本当に淡々と描いてゆく有り様には、正直、背中に薄ら寒いものさえ感じさせてくれる。
 
 たとえが妙で申し訳ないが、お化け屋敷のように「怖いぞー、スゴいぞー」と大袈裟にみせられるよりも、普段住んでいる部屋の、日常の中で「ほら、コレ」と無造作に差し出されたものが「とんでもなく恐ろしい」モノだった、みたいな感じ。

 テーマの重さというか、暗さは戦争を経験した人たちだけの持つ、世代的なものかもしれない。しかし、それを淡々と「はい、これ」と言う感じで観せてくれるこの映画に、観終わった後の重苦しさは皆無だ。まさに夢でも観ているかのように、ハッと気がついたら終わっている。ソレはマボロシのように記憶の中のどこかに残っている。

 「とらえどころの無い」という愉しみを、観せてくれるこの映画は、だから全くオトナの映画であろう。とらえどころの無さを愉しめるなんて、そりゃ歳を重ねた人でないとワカランでしょう。何年か経って、時々(あるいは死ぬ直前とか)「ああ、そういえばこんな映画観たなあ、こんなシーンがあったなあ」と想いだせばそれでいいのだ。なんか木村監督、映画なんて元々夢かマボロシみたいなもんだから、それでいいんじゃないの?って言っているんじゃないかな。
 
いや、ホントに言ってるかどうか知らないけど。

追伸:劇中鈴木清順監督が出てきた時にはビックリ。その姿も含めて少々痛々しいが、未だ若い人たちと共にはたらいていることに感動。ちょっとしたボーナス。

まつばらあつし

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