2008-10-21

ジェルヴァゾーニとクレール=メラニー・シニュベール このエントリーを含むはてなブックマーク 

8月の終わり、サントリーホールで行われた、サマーフェスティバル2008に、ちょっとばかり通いました。今年のテーマ作曲家ステファーノ・ジェルヴァゾーニの室内楽と管弦楽、<音響空間>-ジェラール・グリゼー没後十年に因んで-の管弦楽と室内楽、4つのコンサートを聴きました。

ジェルヴァゾーニは、ベルガモ出身のイタリア人、ノーノのすすめで作曲をはじめ、ロンバルディ、カスティリオーニ、コルギに師事、パリのIRCAMでコンピュータ・ミュージックを学び、ファーニホウ、ラッヘンマンらとの出会いにも影響を受けた、という作曲家。

8月24日 ステファーノ・ジェルヴァゾーニ/室内楽
■アン〜シューベルトの相関性によるセレナータ風
 アルトフルート、クラリネットと弦楽トリオのための(1989)
■アニマート〜8楽器のための〜(1992)
■アンティテッラ〜12楽器のための〜(1999)
■スヴェーテ・ティヒ〜《幻想曲》によるカプリッチョ
 〜2台ピアノと2打楽器のための〜(2005-06)
■シャン〜フルートと22奏者のための〜(2001)

全体的な印象としては、イタリア人って陽気でおちゃらかラテン系なイメージだけど、実は哲学者なんだよねー、という感じ。だってほら、ローマ時代からの歴史背負って、街にしたって建築様式の堆積した地層みたいなところに住んでた日にゃ、凡庸に生きていても、思考回路は変わってくるだろう。おちゃらかさだって、メメント・モリですからね。ある種、内省的な音が聴こえていたような気がします。そして、予測のつかない、けれど、不快でも不安でもない音が。見た目は、気のよさそうな、おじさんと呼んだら気の毒なような、でもおにーさんでもない、おじさんでしたが。

『アンティッラ』のプログラムノートの中の、彼のエッセイ「単純性の逆説」からの引用にはこう書かれています。「これからも絶対にできないと思うこと」「それは、音楽を因襲的に伝統という枠で括ることや、音楽の外から得た着想の具体化として音楽を感じること。わたしにとって作曲とは、それ自身が形を形成するアイディアに他ならない」。
こういうスタンスは、私は結構、好きだ。

とはいえ時間がたってしまって、それぞれの曲の記憶はずいぶん薄れ…。

この日、印象的だったのは、『スヴェーテ・ティヒ』。タイトルは沈黙の光という意味、コソボの人々が日没の純粋で強い光を指して言った言葉で、クロアチアとボスニアで使われているsviete tihi、セルビア語のsvete tihi、二つの綴りがあるそうな。作家パオロ・ルミスによる、東洋と西洋の中間点を出発点として書かれたある種の巡礼記に出てくる言葉で、正確には「平和な世界」を意味し、その書物に触発されて、それを打楽器とピアノの出会いとして作曲した作品。
演奏したのは、ウフク&バハル・ドルドゥンジュ姉妹のピアノとフランソワ・ヴォルペとセバスチエン・コルディエの打楽器からなるマクロコスモス四重奏団。ピアノの内部奏法もあり、ピアノも打楽器のひとつのような、さまざまな響きの彩りが透明に美しい曲でした。
ただ、プログラムノートに書いてある、「マクロコスモス四重奏団には、ちょっと皮肉な役割な逆転がある」(ピアノ=西洋≠ピアニスト=トルコ人、打楽器=東洋≠パーカッショニスト=ヨーロッパ人、てことらしい)つーのは、単純すぎるし、余計なことではあるまいか? なにゆえそれを「皮肉な」と言わなければならないのか、私にはわかりませぬ。

最後の『シャン』は、「フルートと22楽器のための」なので、かなり大きな編成の室内楽ですが、作曲家は「ひとつの線が現れる、その瞬間の風景を描いてみる。つまるところ協奏曲ではないのだ」と書いています。フルートに呼応してさまざまな楽器が絡み合ってきて、面白かった。

8月25日ステファーノ・ジェルヴァゾーニ 管弦楽
■S・ジェルヴァゾーニ: イーレネ・シュティンメ 〜ピアノと交響管弦楽のための“パルティータの始まり” (2006) *
■クレール=メラニー・シニュベール: クロニーク(消息) (2008)
■ニッコロ・カスティリオーニ: 冬−ふ・ゆ 〜小オーケストラのための11の音楽詩 (1972)
■S・ジェルヴァゾーニ: ルコネサンス (2008)

オーケストラは最近、ちょっと苦手なのです。音が多すぎて耳がぱんぱんになってしまふ…。

この日のプログラムは、ジェルヴァゾーニの作品(委嘱作品含)と、彼が選んだ二人の作曲家の作品でした。一曲目、『イーレネ・シュティンメ』は、前日のピアニストのバハル・ドルドゥンジュが弾くので、ちょっと楽しみにしてたのですが、この日は精彩欠いていたような。

二曲目のクレール=メラニー・シニュベールは、フランスの若い作曲家で、2005年にジェルヴァゾーニと共同作業をしています。現在、京都のヴィラ九条山の招聘アーティストとして滞在中、この『クロニーク』も「日本の香りのするところがあるでしょう」と、プログラムノートの中で語っています。ゆったりとして抑制のきいた、どちらかといえばダウナー系の響きの中に、「妖精ちゃん登場!」みたいなキラキラした素早い上昇、下降音形がちりばめられ、プリティな忘我の境地に誘われたのでした。
彼女は、これまで小編成の作品が多く、オーケストラの曲を書くに際して、「自分の音楽の詩的な性格は変えずに、しかし、素材の扱い方を根本から変えていかねばなりませんでした」と語っています。たしかに、オーケストラの重厚な響きではなく、そして、オーケストラでこういうひそやかな音を聴けるということがとても新鮮でした。

三曲目、カスティリオーニは、1972年の作品、まあちょっと古いわな、なんて思ってしまう自分に気がつき、恐くなる。そんなにも現代音楽に毒されて…じゃなかった、浸ってしまっていたのか…。描写音楽に陥る寸前でふみとどまっている、まあちょっと面白いところのある作品でした。

今回の委嘱作品『ルコネサンス』、タイトルはフランス語で「認識」「感謝」とかけ離れた意味を持つ。「発見し識別するという行為は感謝し(それを)表明する意識を伴うことに気がついたことは、わたし自身、興味深かった」「芸術作品とは常に、認識と感謝の間のやりとり<ルコネサンス>の貴重な証言なのである」「<ルコネサンス>こそ、生きる上でもっともたしなみのある文化的振る舞いであるという思想とともに、わたしは芸術作品をつくる」などなどと、プログラムノートには書かれています。楽曲の形式や構造については何も書かれていません。そのあたりが、「哲学者」と感じた所以でもあり…とかいって、お茶を濁そうとしているワタシ。だってなんだか、つかみ所がなかったんだもん。ガンガンいかずにつかみ所がないのは、ワタシ的には、きらいじゃないってことですが。

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