2008-10-24

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サントリーホールのサマーフェスティバル2008の続き。

ジェラール・グリゼー没後十年に因んで、2つのコンサートがありました。

8月25日
■ジェラール・グリゼー:音響空間
 プロローグ-ヴィオラのための(1976)
 周期-7人の奏者のための(1974)
 部分音-18人の奏者のための(1975)
 変調-33人の奏者のための(1978)
 過渡状態-大管弦楽のための(1981)
 エピローグ-4つのホルンと大管弦楽のための(1965)
  指揮:ピエール=アンドレ・ヴァラド
  ヴィオラ:ミシェル・ルイリー(プロローグ)、須田祥子(エピローグ)
  管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

8月30日
■ミカエル・レヴィナス:呼び声-11楽器のための(1974)
■ユーグ・デュフール:水を司る星-8楽器のための(1993)
■ジェラール・グリゼー:ヴォルテクス・テムポルム(時の渦)(1994-96)
 指揮:ピエール=アンドレ・ヴァラド
 演奏:アンサンブル・ノマド

グリゼーを聴きたいと思ったのは、ヴォルテクス・テムポルムです。ラチュ聴こ03に書いたとおり、レタン・モデルヌが日本で演奏するはずだった(そしてウィレムがピアノを弾くはずだった)曲。CD(アンサンブル・ルシェルシュ演奏)は聴いていたのですが、日本で、ノマドが演奏することを知り、あの特殊調律をサントリーでやるんだ…と、まあちょっと、悔しまぎれに、えーい聴いてやる!みたいなところでしょうかね。

この2つのコンサートについては、プログラムに、夏田昌和さんによる丁寧な解説が出ています。とはいえ、それでわかったというわけでは全然ない。スペクトル派、スペクトル音楽って、なんじゃらほい…。

夏田さんによれば、音という「現象」を音符という「記号」に置き換え譜面に定着した成果が西洋音楽史であり、20世紀になって、(特定のピッチをもたない)打楽器群の参入、(具体音を扱う)ミュージック・コンクレート、(作曲家自らテクノロジーを駆使して音を生成する)電子音楽の参入により、その音楽史が書き換えられた。あるいは別の文脈からは、協和音程、和音構成音の発展の歴史が、やがてドビュッシーとラヴェルを経てメシアンの「共鳴和音」へと至り、メシアン門下のグリゼー、ミュライユらのスペクトル音楽へと至った、のでした。

スペクトログラムとは、「フーリエ変換技術などを用いて、複合的な音(音色)からそれを構成する周波数スペクトル成分を導き出し、一定の時間的推移とともに視覚化したグラフのことで、そのグラフという機器によってつくられる」もので、まあそういった音の要素を道具に音楽をつくっていったヒトタチのようです。

光のスペクトルなら多少おつきあいがあるのですが、音のスペクトル…いろんな解説読んでもよくわからない、けど気になる…。誰か、音を出しながらスペクトログラム見せながら、解説してくれないかなあ。

まあいいや。そのスペクトル派のグリゼーの、『音響空間』。編成でわかるように、ヴィオラのソロから、だんだん楽器が増えて、響きに厚みが増していく。ヴィオラのソロの、倍音いっぱいの、幽けき奇妙な響きは、とてもよかった。で、だんだん、音が増えていく。ふつう耳にする楽音とはちょい違ういろんな響き。でね、ある時点で、「効果音大全」みたいに聴こえてきちゃったのです。あんまりたくさんいろんな音がありすぎて、耳が飽和状態、もー満腹、みたいな…。私の凡庸の耳で聴いた音を、私の凡庸な表現力で語ると、こうなる。スミマセン。

室内楽のほうは、スペクトル派の他の作曲家の作品も交えてのプログラム。

ミカエル・レヴィナスは、あのエマニュエル・レヴィナスを父に持つ、作曲家にしてピアニスト、またアナリゼの大家でもある。あのレヴィナスを父に持ったら、そりゃーすごいアナリゼするんだろう、とか思ってしまふ(レヴィナスは未だ一冊も最後まで読んでない…けど、内田樹さんの著作経由で、独自の深く厳しいユダヤ教理解に敬服)。
この『呼び声』は、しかし激しい(それとも「やはり激しい」か?)。『呼び声』というより、『叫び声』。管楽器(クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット)はスネアドラムを共振させホワイトノイズのような音を鳴らしながら演奏する(マイクで拾われた両者の音がミックスされてスピーカーから流れる)。ピアノも、ヴァイヴレータによってタムタムを共振させている。ノイズまじりの叫び声。エキサイティングにして深い音だった。

デュフールさんは、あまり記憶が定かではなく…ちょっと印象派っぽい、とかいったらおこられる?

『ヴォルテクス・テムポルム』の前に、指揮者のヴァラドによる解説がありました。以下その概要。

□グリゼーの作品は、2つの時代に分けられる。最初の時代は1985年まで、次が1986年から98年に亡くなるまで。25日の『音響空間』はスペクトル時代=前半期の作品、ヴォルテックス・テムポルムは晩年=後期の作品。
□スペクトル派とは、スペクトル的な技法を意味し、ある時代や流れを象徴する概念というよりは、作曲家にとっての道具にすぎない。それゆえミュライユ、レヴィナス、デュフール、グリゼーなどのスペクトル派の作曲家たちは、それぞれ個性的な発展をとげ、たいへん異なるタイプの作曲家になっていった。
□『ヴォルテクス・テムポラム』は3つの部分で構成され、それは2つの「間」があることを意味するが、グリゼーは流れるような形でこの曲を書き、その「間」にも間奏のようなノイズのようなものが続く。ヨーロッパの冬のコンサートでは、楽章間に客が大きな咳をするので、それを消すために音を入れたという。その「間」のノイズにより、聴く側は、次の音楽まで待たされているような感覚になる。
□最初の楽章は、3つの部分で構成される。最初はフルートとクラリネットが前面に出て、弦が薄く響き、その後逆転して弦が前面に出てくる。最後はピアノの技巧的なカデンツァ。第一楽章の冒頭部分は、ダフニスとクロエを素材としており、あたかも波が次々と押し寄せるように、また波がどこかで割れて分散して消えるように、この作品も構成されている。
□第2楽章では、ピアノが一定の下降和音を奏で、そのうえに一定のリズムでアクセントが重なり、それがまたつながって別の新しい下降和音となる。ほかの楽器は、ピアノの響きの間に、クレッシェンドしデクレッシェンドしながら、彩りを添える。
□最後の楽章では、第1楽章と第2楽章で提示されたさまざまな素材が再登場し、さらに展開されていき、本格的なディスクールとなっていく。
□ヴォルテクス・テムポラム』は時間の渦、渦巻きのように波が次々と押し寄せてくるという意味で、この作品は、時の流れ、圧縮される時、伸びていく時といったさまざまな時間の流れが示している。短い小刻みなリズムで時間が表現され、また引き延ばされたより長い時の流れがつくられ、複数の時間が積み重なっていくように書かれている。

この解説があるので、どういう作品かは、私が書くこともないでしょう。
冒頭の波、寄せては返す、次々とくる、波。波のような鐘の響きのような。にはじまって、お脳みそをきゅっとひねられるような、渦まき逆巻く時間に誘われる。

だが。(あまり批判は書きたくないのだが)ピアニストの熱狂的なカデンツァを聴きながら、
私はレ・タン・モデルヌの面々を思い浮かべてしまっていた。彼らは7月15日にフランスでこの曲を演奏している。神奈川でもこの曲を演奏するはずだった。彼らの音楽、その時鳴っている全ての音の見事な調和、その曲全体の見事な調和、それが陶酔や高揚といった作用の結果ではなく、とても知的な解読の結果として、そして極めて芸術性の高い表現力によってもたらされていたことが思い出されたのだ。ノマドの演奏が不満だったわけじゃないけど、レ・タン・モデルヌのこの曲の演奏を、聴きたかったな…と、ふと思ったのだった。

ここからは音楽と陶酔について。
陶酔を好まないのは、私の個人的な嗜好だけれども、陶酔・熱狂が思考停止・判断停止であることは私の嗜好ではなく事実といってよいでしょう。そしてそのような状態(にある人)は、どこにでも流されていく、たやすく流される。なにしろ判断停止だもん。とりわけ、大勢の人間が一体感を共有する類いの陶酔が好きじゃない。雪崩を打って転がりだすような熱狂のうちに身を置くことを、私は好まない。

音楽だからいいじゃんとかいっていられないようなことだと思うのよ。聴覚は脳の古い皮質にも連絡し、古い皮質は情動、つまり生物の根源的な感情を司る(と養老孟司が書いていた)。だから音楽は情動に深くかかわるし、陶酔にも結びつく。音楽がイメージを喚起する力は大きい気がする。昔聴いた音楽を聴いて、突然記憶が生々しい質感を持ってよみがえることがある。五感のほかの感覚では、私はそういう経験をしたことがない。そしてある種の音楽には、誰もかれもが一様に理屈抜きの強い情動を呼び起こされる、ような力があると思う。ハリウッド映画の音楽なんか、巧みだなーと思うよ、高揚感や恐怖心をかきたてるようなやつ。

音楽だって芸術だって、利用されてきたじゃん、歴史の中で、何度も。何にとはここで言わないけれど。そういうことに注意深くありたいと思うわけさ。ある種のメロディーや和音や音響に高揚させられり、演奏者の陶酔にシンクロしたりするのとは違うやりかたで、音楽を聴きたいと思うわけさ。なんかよくわかんないけどスゲーよかったっ!ときも、わたしひとりの孤独な没我の境地でありたいわけさ。で、判断停止から遠ざかるために、ここで、誰にも理解されないであろう批評ならぬレポートならぬ「かんそうぶん」書いて、クダを巻いている、というわけなのさ。

火事場の馬鹿力みたいなことは嫌い。ふつうの状態で、ちゃんとできること、が好き。そして熱狂から遠く離れた静かな冷徹さでもって、それがたとえ「狂乱の」音楽であっても、奏でることも、聴くこともできる。はず。

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