2008-12-08

追悼というか…… このエントリーを含むはてなブックマーク 

10月の終わり頃、映研時代のとある先輩の訃報に触れる。
この世を去ったのは、既に1カ月以上も前、とのこと。

彼は、私に銃火器類の扱いとアクション映画とダイコンフィルムの知識を仕込んだ悪友であり、やたら金と暇のかかったアクション8ミリ映画の撮影隊として、一緒に土埃にまみれ、警官に追っかけられた同志でもあった。また、映画についてあれこれ意見をぶつけ合える数少ない映画好き仲間でもあった。もっとも、鑑賞した作品数では、私などとても彼の足下にも及ばなかったが。

商業映画もさることながら、自主制作映画、ことに8ミリ映画に対する愛情と好奇心は尋常ではなかった。ただし、公開されている作品を「とりあえず」すべて観ておくといった腐れオタクではなく、あくまで自身の興味に忠実にチョイスし、観た作品についてはほぼ必ず何らかの形で感想なり批評なりを加えるという、実に誠実な映画ファンであった。

と同時に、我らが映研の「考古学者」とも表すべき一面もあった。すなわち、部室にこもって古い史料やフィルムを片っ端から掘り起こし、映研の歩みを詳細にまとめるという労作を成したのである。その根気強さには誰もが舌を巻いたが、本人はむしろ嬉々とした表情でホコリだらけのフィルムの山に分け入っていた。。

サークルの機関誌「あはれ」やミクシィなど、彼が残した文章はかなりの数にのぼる。それを一冊にまとめられないだろうか……。今さら彼の急逝を悼み、しかしながらその無念さをどこにぶつけてよいのやら分からない我々が思いついたのは、そんなことだった。善は急げ。早速、作業に取りかかった。

サークルの機関誌は既に四半世紀も前のものであり、たかだかコピーをホチキスで留めたようなものだから、傷みはかなり激しい。手書きはスキャニングの後、パソコンでゴミを取り除き、ワープロ原稿はすべて打ち直し。それなりに分担はしたものの想像以上に手間がかかり、割り付け担当などは会社の上司に申し出て、就業時間中にも作業を継続していたそうな。なんて寛大な会社だろう。このご時世、後々のリーマン人生に悪影響を与えねばよいが。。

ともあれ、無理かと思われた「あはれ特別号」は、ほぼ完成のめどがたった。終わらない仕事はないらしい。

あらためて彼の文章に触れ、そのブレのなさに本当に驚かされた。まさに映画好きが足生やして歩いてるような人だった。しかもかなりの健脚。実際、彼は歩くのが速く、山道や高いところが好きだった。いつも山道から突然現れたり、木の上から人を見下ろしたりしては、子供みたいに得意げにニカッと笑っていた。きっと彼の映画好き魂にも、同じような脚が生えていたに違いない。

と同時に、特に社会人になり、妻子ができてからの彼の文章には、無邪気な映画好きではいられない自分の状況に対するもどかしさ、大好きな映画の世界から取り残されているという焦りも見え隠れする。むろん、子供は大好きだし、家庭が一番。後輩や友人の成功は何より嬉しいし、ケガを押してでも応援に駆けつける。でも……。

きっと、そんな彼だったからこそ、多くの人の心に何かを残し得たのだろう。自分が何者かになることではなく、何者かであると信じたものを心から愛し、全身全霊をかけて応援する人だった。たとえ、忸怩たる思いやほろ苦さを感じることがあろうとも、その生き方を変えることはなかった。彼が愛したペンネーム「某」は、そんな彼の生き方を象徴していた。

結果、もしかしたらしんどい人生だったのかもしれないと、今更遅いが思ったりもする。彼の些細な一言に滲む秘めたる呻吟に思い至らなかったことを悔いる気持ちもある。だから時々、とてつもなく辛くなる。ただの後輩である私でさえそうなのだから、同期で戦友であった先輩方のやりきれなさは、ひとかたならぬものであろう。。

でも、そんな悔恨など彼の望まぬことかもしれないとも思う。だから、年末に予定している「送る会」は、できるだけ明るく前向きなものにしたい。何たって、20数年ぶりに映研部員が世代を超えて集まるという、奇跡的な会なのだから。

彼の戒名には、本名ではなく「某」の字が使われているらしい。彼の魂は、いまも、これからも、ずっと生き続けるのだ。

キーワード:


コメント(0)


odaq

ゲストブロガー

odaq