2009-02-13

デメキングがやってくる!! このエントリーを含むはてなブックマーク 

デメキング――それは銀河を越えてやってくる!
デメキングとは、いつか闘わなくてはならない…!
闘うんだ、デメキングと!!

しかし、デメキングはさほどこの映画では重要ではないだろう。
むしろこの映画で主軸となっているのは、デメキングを心の底から希求しつづける男たちの物語だ。

舞台は1970年代の瀬戸内。
近所の小学生を相手にするしかない、いじめられっ子の中学生亀岡。
そして、エキセントリックで寡黙な蜂屋。
ひょんなことから、二人は出会う。
蜂屋は「デメキングと闘うんだ」と言う。
そんな蜂屋に惹かれる亀岡。

はたして、デメキングとは何か?

この謎がこの映画のメインとなりながら、
亀岡や蜂屋の、うんざりするような退屈な日常が淡々と描かれる。
詩情豊かな瀬戸内の風景が、むしろやるせない退屈さをみごとに描き出している。

わたしたちの日常は、うんざりするほど退屈で、陳腐だ。
亀岡や蜂屋ら中学から高校生の時期は、特に日常に倦む年頃である。
この映画の舞台のような、地方では、なおさらだろう。
地方から抜け出すこともできず、
何の刺激もなく、面白味のない毎日。
亀岡のように、少年たちとともに「探検団」を結成しても、「探検」するようなところなんてないのだ。
蜂屋のように、毎日をストイックに生きていると、そうした日常の退屈さの倦みが、心に澱のようにたまりこむにちがいない。
デメキングとは、そうした退屈さが生みだしたものともいえる。

お笑い芸人だからといって、演技力をバカにしてはいけない。なだぎ武は、びっくりするくらい劇中にフィットしている。また、喜安浩平の間の抜けた、どこかしら憎めない演技も良い。
70年代の、貧乏くさい日本も見事に表現されている。
どこかしら切ない感覚を喚起させてくれる映画である。

キーワード:

デメキング


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ぬま

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