2009-04-26

新実徳秀の世界ー螺旋をめぐって:生命の原理ー このエントリーを含むはてなブックマーク 

セシオン杉並で、「世界音楽入門II 新実徳秀の世界ー螺旋をめぐって:生命の原理ー」という、レクチャー・コンサートを聴いた。(2009.04.25 14h00)

前半は北沢方邦の世界音楽をめぐるレクチャーと、新実徳秀のピアノを含むデュオ、トリオ作品のコンサート、後半は新実徳秀とこのコンサートのチラシなどのグラフィック・デザインを手がけた杉浦康平の対談と、パーカッションのための作品という構成で、3時間以上に渡るプログラム、ちょっとツカレタ。

<プログラム>
 魂の鳥(フルートとピアノのための)(1996) 
  永井由比 fl. 長尾洋史 pf. 

 ソニトゥス・ヴィターリスI ヴァイオリンとピアノのための (2002)
  寺岡有希子 vl. 長尾洋史 pf. 

 ピアノトリオーールクス・ソレムニスーー (2008)
  寺岡有希子 vl. 上森祥平 vc. 長尾洋史 pf. 

 風のかたち ヴィブラフォンのための (1990)
  上野信一 vib.

 アンラサージュII 3人の打楽器奏者のために (1978)
  上野信一  大前和音 峯崎圭輔

 ヘテロリズミクス 6人の打楽器奏者のために (1993)
  上野信一 +フォニックス・レフレクション
        石井喜久子 大高達士 大前和音 萩原松美 
        小田もゆる 新田初美 峯崎圭輔 三宅まどか 

まず、最初の『魂の鳥』、これにかなりオドロイタ。ピアノの響きの余韻の只中に生成し、立ち昇るがごときフルートの音。作曲家のプログラムノートには「ピアノのつくり出す倍音の中にフルートはその生を生き始め飛翔へと向っていく」とあり、まさに意図通りの音を聴き取ってしまったようだ(ちょっとクヤシイ)。時間の流れは「横軸」な感じがするのだけど、ここで鳴る音は垂直に立ち昇り、でもそれは時間を断ち切るのではなく、垂直な時間だったのであった。
タイトルの意味するところは、「鳥はしばしば飛翔の象徴であり、魂の実体化したもの」。メシアンの鳥たちとは違うなー。違いは、楽想や作曲家の資質や嗜好のことではなく、生態系の違いなんだなこれは、と、ひとり納得。

次の『ソニトゥス・ヴィターリス I』、このシリーズのIVとVを、2007年の全音の「四人組」のコンサートで、そういえば聴いていた。彷徨うようなヴァイオリンの音ではじまり、ピアノがからみついてくる。「音の闇から立ち上がろうとする音を聴く」というのが作曲家の言。これも悪くない。

『ピアノ・トリオールクス ソレニムス』=荘厳の光。形式の見通しのないところから出発して、気がつけば螺旋形式、「宇宙と同じ螺旋状の上昇を、はからずも音楽の中に表現することとなった」そうな。何が螺旋状かといえば、旋回し上昇する音形ということでもなく、昂揚感でもなく、何とはうまくいえないのだが、ああ、うん、そうね、螺旋螺旋…と納得する、人のいいワタシ。
前半3曲通して、この人のピアノの使い方がイイナと感じた。キラキラひらひらしてないピアノ。音の塊がぐわーんと響くところとか。

休憩後、まず対談があって、杉浦康平のアジアにおける螺旋図像のスライドショーがあって。まあ、ワタシは好きなんですけどね、生命の螺旋状運動とか、量子力学とヴァナキュラーな宇宙論の連関とか、宇宙樹・生命樹がナンタラカンタラとかさ。でも割愛。

この対談の最初に、杉浦康平が作曲家をヨイショ(失礼、絶賛)してた中で、ルクス・ソレニムスのことを、「音の闇から立ち上がってきた音に、どんどん力を与え、螺旋状に高みへ高みへと導く…」というようなことを言っていたが、「どんどん力を与え」「導く」というのはチガウカナと。作曲家の意図によって生成する運動としての音なのではあろうが、「力を与え」というような、他律的なものには聴こえなかった、ワタシには。

後半のコンサートは、パーカション部門。上野信一のマルチ・パーカッショニストぶりを拝聴拝見すべく、姿勢を正す(ほんまか?)。

ヴィブラフォンのソロ『風のかたち』。2台の微妙にピッチの異なる(らしい)ヴィブラフォン、最初はコントラバス(たぶん)の弓を使って、鍵盤(っていう?)の小口をこする。そのあとの共鳴管の響きはまさしくヴィブラフォンなんだが、へええ、鍵盤を弓でこするとこんな音がするんだー。でもって、とにかく倍音の嵐。マレットで叩いても倍音の嵐。うわー。うわーん、わーんわーんわーん。気持ちいーよーん…あ、失礼。作曲家によれば、〈尺八本曲から抽出された旋法」を使った作品で、「中空にゆらめきながら漂っては消えていく余韻の交わり、それらの作り出す「線の形」。それはまるで「風のかたち」のように捉えようのないものかもしれないが、しかし確かにそこに在る。〉……打楽器は、音って空気の振動だったよなと、こっちも共鳴しながら思い出すとこがいいね(旋法とか言われると太刀打ちできないので、話を変える)。

『アンサラージュ II』、フランス語で「纏わりつく」の意。太鼓系の打楽器(革張ってるやつね)、名前はわからないが、タムタムとかみたいなやつ、3人で叩きまくりな作品。打楽器は、音って空気の振動…あ、さっき書いたか。渦巻くリズムリズムリズム。血が騒ぐ。

『ヘテロリズミックス』。6人の打楽器奏者のための…しまった楽器構成が全然わからん。マリンバとヴィブラフォン(あったような…)、大太鼓2、小太鼓、銅鑼みたいのもあったかな、あといろいろ叩き物が所狭しと並んだ舞台、楽器掛け持ちで舞台後ろを駆け抜けるオニーサン。これも作曲家の解説より、「hetero+rhythm+mix…原旋律・リズムと、それを異なる時間単位、異なる音高・音色へと変化させたものが、互いに重なり合って多層的複合的な音楽時間を作り出す」、ふむふむ。通奏低音的にベースになるリズムが刻まれているのだが、そこからズレたり派生したりしてくるリズムや音色がひとつになって旋回していって、もう何が何やら…さらに一層血が騒ぐ、ひたすら楽しい曲でした。
上野信一の指揮の身振り手振りがさすがパーカッショニスト、切れが良くて、指先から音が聴こえてくるかの如し、でした。

余談ですが。
北沢方邦著『メタファーとしての音』(新芸術社)を、会場で購入。彼は青木やよひとともに、アメリカ先住民ホピ族の地を訪ね、ホピや先住民文化についての本を何冊も書いていて、私はそれを読み耽り、『ホピの聖地へ―知られざる「インディアンの国」』(北沢方邦著 東京書籍)を携えて北米大陸南西部を経巡り、十数年越しの憧れの地、ホピの国を訪ねたのだった(それが既に十数年前のことだ…)。音楽をめぐる彼のお仕事は寡聞にして知らなかったが、『メタファーとしての音』は、「音楽は人間感情の表現である、としばしば語られてきた。たしかに、大衆の好むいわゆるカラオケの演歌から、リヒァルト・ヴァーグナーやブルックナーあるいはマーラーの咆哮する大管弦楽に至るまで、すべては人間感情の表現であるかのようにみえる…」とはじまり、この〈語られてきた〉〈みえる〉」という留保のつけかたに、すでにワクワクしてしまう。目次を眺めると、世界音楽、西欧中世-近代-現代と駆け抜けるこの本、会場で著者に話しかけたら「むつかしいですよ」と言われてしまって、ちょっとトホホなのだが、むつかしくても駆け抜けてしまおう…。

キーワード:

新実徳秀 / 上野信一 / 北沢方邦


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