2010-01-10

再び、音楽という大きなサイクルを描くために このエントリーを含むはてなブックマーク 

 西海岸での写真だろうか。まとわりつくような湿気を微塵も感じさせない空と、その下に放置された外側にペイントが施されたベッドの木枠。その景色とコントラストをなすように植物の陰に覆われた場所からのぞくのは、何の変哲もない男女の日常のひとコマ。本書で語られるこの風景との馴れ初めとは別に、その鮮やかながらもどこか爽快さすら感じさせる装丁に惹きつけられるのは、どうしてだろうか。

 本書の中で繰り広げられるのは、パッケージ化された音楽の趨勢と、当時のシーンと随伴しながら共につくりあげてきた著者の仕事の集大成だ。現在は忘れ去れつつある、パッケージ化された音楽に同封されたライナーノーツに寄稿してきた著者が本書で書き連ねる言葉は、どこかノスタルジックに響く。レコードやCDというメディアを礼賛し、アルバムという音楽のいちフォーマットの衰退を嘆いているわけではない。むしろインターネット時代の音楽の聴き方を、私たちに提示しようとする。
 音楽を聴くという行為が個人的な営みであることに対して何の違和感もない時代に生まれ育った評者のような人間にとって、そこから抜け出ることは難しい。本書中の著者原雅明とレイ・ハラカミとの対談にこういうくだりがある。

  原:魅力的な音の基準って、人それぞれに違うというふうに思われているし、だからこそ、ジャンルっていう枠が機能するかもしれないですけど、ほんとうにジャンルを超えていくのって、口で言うのは易しで、実際は相当に困難なことですよね。人それぞれに音楽を聴くシチュエーションも動機も理由も違うわけだし、音楽に求めるものも違うわけですが、それでもなお、この『Red Curb』は、社会的な面倒くさいことなんかもすり抜けて、バシッと訴えかけるものがあるってことなんですが。
  ハラカミ:(中略)いつも言っている事ですが、コンセプトでアルバムを作っても逆に無駄なモノができてくるような気がするんです。せっかく言葉を使っていないのに、必要以上に意味を強要してもしょうがないじゃないですか。(中略)僕自身が特定のわかりやすいイメージを、聴く人に強要したくない、というのは心がけています。

 評者のような人間は、音楽製作者の立場からこういう意見が聞こえてくると、自分を擁護してもらっているようで、どうしても心地の良い殻の中にとどまっておこうとする気持ちが出てきてしまう。だが、原が提言するのはこの個人的な体験を、共有し、新たなサイクルを生み出していくことだ。そのサイクルは、サンプリング/エディット/(リ)ミックスという手法が一般化した現在の音楽シーンで、それを愛好するものなら誰にでもその円環の一部を担うことになる。そのうねりには新旧という区別を飲み込み、大きなうねりとなる。「音楽の掘り起こしと再生のプロセス」だ。
 この音楽そのもの変化とともに、言葉が音楽に負う責務も変化しつつある。アーティストは以前にもまして、メディアに登場し自分の音楽を説明する必要に迫られ、聴き手の私たちもそれを求めてしまう。自己宣伝にとどまらず、「アーティスト自身の言葉による音楽作品の説明」とそれによって私たちリスナーが「耳を開き」、「(評者注・アーティストは)リスナーの意識の問題にまで踏み込んで作品をつくること」。それによって言葉もまた「音楽のサイクル」の一端を担うことになる。
 そして、21世紀のサイクル・サウンドと副題に付されているように、本書が膨大なライナーノーツとディスクガイドで私たちに提示してみせるのは、次の世代への道しるべだ。原が心血を注ぎ築き上げてきたものを、私たちは受けとめなければならない。本書に挙げられたアーティストの固有名を辿るだけで、相当な時間と労力を割くことになるだろう。だが、それくらいの気骨がなければ、音楽の未来を創造していくことはできないのだ。

 最後に冒頭で掲げた疑問に、とりあえず私なりの答えを出してみたい。本書を覆う表紙にあしらわれた写真に惹きつけられるのは、私たちが何か観察し、語ろうとすれば、どうしようもなく枠組みを必要としてしまうということだ。そして、そこから見える景色はどこかいつもと違った見えるからではないか。木枠が置かれていればそれをくぐろうとし、木立の中から見えた日常のひとコマにふと足を止めてしまうのだ。そして、本書はそんな枠組みといつもと違った風景を私たちに示してくれているはずだ。

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