2010-03-28

宇多丸、町山対談から考える このエントリーを含むはてなブックマーク 

毎週愛聴している「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」。
昨日の放送終了後(「時をかける少女」特集は秀逸だった!)、ポッドキャスト限定で『ハート・ロッカー』をめぐる宇多丸さんと町山智浩さんとの討論が配信された。
http://www.tbsradio.jp/utamaru/podcast/index.html

それを聴いて(というかそれをきっかけにして)、僕なりに思うところがあったのでメモしておく。
twitterでも書いたことだが、このポッドキャスト対談は、普段、僕が映画批評というものについて考えている諸々に深くかかわる内容だった。

『ハート・ロッカー』に対する評価はひとまず措く。
僕が気になったのは、宇多丸さんが言っていた「町山さんと僕の映画を評論する上での立脚点、価値観の違い」ということに関してである。
以下、宇多丸さんの発言。

「僕は作り手の意図が、作品における絶対の正解とは思わないんですよ。作り手の意図と違う受け取り方をされて、そこがいい映画というのはいくらでもあるし。必ずしもそれ(作家の意図)がイコール正解というか、一つの見方というふうにするのが仕事だとはあまり思ってないんですよ」(宇多丸)

この言葉は、たとえば、加藤幹郎の以下のような文章と符合する。

<作品に込められたとする「作者(監督)の意図」に、読者=観客がみずからの判断の基準をおくことはおよそ無意味である。重要なのは「作者の意図」を越えたところに実践されるテクストの生産的読解だけである。テクストとは、そこに汲みとられる意味がしばしば「作者の意図」とは一致せず、それどころかそれと食い違いさえする怪物的ななにものかである>(加藤幹郎『「ブレードランナー」論序説』)

トリュフォーとヒッチコックの例を出すまでもなく、「作り手の声」は、ときに魔術的な目くらましとなる。批評はそのことをつねに警戒しなければならない。

もうすこし実感的なことも書いておこう。

<僕は、快、不快に関わらず、同業の意見(感想、批評、おしゃべり、何でもいいが)を信用している。(中略)批評とは何かなど、かけらも考えたこともなく、映画にマル、バツをつけることを生業にしている評論家の“批評”よりも、同業の“批評”を信用する>(荒井晴彦『争議あり』)

荒井さんのような作り手が、このようなことを言うのは理解できる。問題は昨今、あまりにも無防備に作り手に同調、あるいはみずからも「作り手」を標榜しようとする「批評家」が多すぎることだ。

批評とは、一つの文学的営為である。それもきわめて実学的な。
批評家は、映画そのものではなく、言葉でそれと対峙しなければならない。その言葉を信じられないということは、批評の敗北を意味する。
逆に言えば、すぐれた批評を目にしたとき、われわれは、そこにすぐれた映画を観たときと同じくらいの感動を見いだすことができるのだ。
批評とは、けっして「作者の意図」を補完するための装置などではない。

だから、僕は、「ライターなんてやっていてもしょうがない」「これからは作り手をめざさなければ駄目だ」などという人に対しては、断固として批評の可能性を叫んでいきたいと思う。

これは批評を買いかぶった僕の幻想なんかではない。
かつて淀川長治に出会って以来、数多くのすばらしい映画批評に心奪われてきた者の守るべき砦であり、矜持なのである。

キーワード:

宇多丸 / 町山智浩 / 映画批評


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佐野 亨

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