2010-06-26

『デルタ 小川国夫原作オムニバス』クロスレビュー:曠野と故郷、二つの世界の遠近法の中で このエントリーを含むはてなブックマーク 

「デルタ 小川国夫原作オムニバス」を観た。
「誘惑として」「他界」「ハシッシ・ギャング」ーこの3作品に共通するのは、
小川作品の多くに登場する静岡県・大井川流域が舞台である、というこ
とだ。しかし、この映画を目にした観客の心が旅情に誘われることはない。
映像を通して私たちが目にするのは、荒野である。それは、小川作品に
共通する、もうひとつの原風景である聖書の世界に現出する、荒涼たる
風景にほかならない。正確に表記するなら「曠野」と書くべきか。
そう、私たちはこのオムニバス映画を目にして、近景では大井川流域の
風や光に触れ、川の流れに耳をすませる一方で、遠景にはごつごつと
剥き出しになった岩肌が眼前に迫る、ひろびろとした曠野に呆然と佇む
無力な自分を見出すのである。
聖書世界の曠野と、故郷の風景、この二つの世界の遠近法の中で、
小川作品に接するということは、自分の心のうちに潜む狂気に触れる
危険な営みであるかもしれない。
自分にしか分からない自分と、自分ではもうどうしようもなくわからない
もうひとつの自分。映画の中の登場人物に共通するのは、自分の心の
奥底に潜む「狂気」におびえ、それでいながら、自分の肉体を消し去る
ことでもしかしたら得られるかもしれない「快楽」を切望している。
思えば、そのような心のあり様をテーマにした文学作品は、「内向の
世代」とひとくくりされた、古井由吉、黒井千次、後藤明生などの同時代
作家に共通のものであったろう。
今回の3つの映像作品の作者はいずれも「内向の世代」よりひと回り
もふた回り若い世代に属するようである。しかし、映像のスタイルは小川
国夫に特徴的な“文体”を、適確に継承し、流麗とはほど遠く、ざらざら
とした質感で、観る者の心のひだにまで深くくいこみ、記憶させるのである。

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M.-Cedarfield

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