2008-03-23

『ビルマ、パゴダの影で』 レビュー このエントリーを含むはてなブックマーク 

スイスの女流監督であるアイリーヌ・マーティーの
この記録映画『ビルマ、パゴダの影で』は、
ビルマ軍政の人権弾圧問題を顕現した意義ある作品だ。
ビルマときいて、アウンサンスーチーの名しか出てこない多くの人にとって、
この作品はこの国の現状へのよい導入となるだろう。

しかし、それと同時にいえるのは、
この作品は、よい導入にしかならないということだ。

アイリーヌ監督は、以前、ビルマに旅行者としてやってきて、この国に魅惑されたという。
そして、この映画の撮影のために彼女は、ジャーナリストを受け入れないビルマに対し、スイス向けの観光PR映像を撮るためと偽り、ビルマに入国した。

政府から送られた観光ガイドが終始つき、彼女は本来の目的である撮影ができないため、ガイドを偽り、ホテルを抜ける。

そして、彼女はカレン族やシャン族の村へ行き、弾圧を受ける人々の声を撮る。
彼女の視点は、少数民族へ向いており、彼らの証言を描くことによりビルマ軍政を痛烈に批判する。

しかし、それはあまりに直球過ぎ、淡々とした証言が強い衝撃を与えるものの、客観性は欠けている。

両親を失ったシャン族の少年が、
将来SSA(Shan State Army)へ入隊し、両親を殺害したビルマ軍と闘いたい
という言葉は重く、そして印象的だ。

目には目を。

暴力には暴力でしか戦えないのか。
美国と偽ろうとする国家には、偽ってでしか取材できないのか。

誤解をさせてしまうのはイヤなのではっきりいっておくが、
私はもちろん軍政に反対だ。
少数民族や少数の宗教が弾圧を受けるのも許せない。

しかし、この作品の少数派への熱心な傾倒は、物事を単純化させているように思われてもしかたがない。

この国の約8割を占めるといわれるビルマ族のすべてが軍政に賛成しているわけではなく、ましてや、9割を超す仏教徒の多くは軍政に反対をしているのではないか。

「ミャンマー」とは軍政がつけた名前だからと、「ビルマ」を使う人は多い。
呼称の選択が、政治的立場を表明することになる。
少なくともこの映画ではそうだ。

私は個人的に、どちらの呼称も使う。
私がミャンマーというとき、そこに軍政への賛同の気持ちはなく、
また、ビルマというときも同様だ。

もともと、ビルマとミャンマーは同じ意味を指し、
口語か文語かの違いで、日本を「ニホン」と呼ぶか「ニッポン」と呼ぶかくらいの違いだそうだ。

軍事政権の主張は、英国人が呼んでいたBURMAはビルマ族をさし、
MYANMAR(ミャンマー)は他民族が共存する連邦国家としての呼称というものだ。

そういった意味では、ビルマを使うことが皮肉にも、この国をビルマ族の国と呼ぶことになってしまう。

メディアを通し我々の耳には、ミャンマー軍事政権よりも、アウンサンスーチーの主張のほうが詳細に届く。

ゆえに、この作品は、実際に何か起こっているのはなんとなく知ってたけど、
こんな酷いことがおきているということを、気づかせてくれるよい作品なのだが、
そこに、この国が抱える根本的な問題は残念ながら見えてこない。

なぜ少数民族は迫害を受けているのか。

もちろん、こういった認識により迫害の問題が表面化され、
それは、この国への関心や研究を一層深めるきっかけとなるかもしれない。

そういった意味で、この作品は意義があると思う。

しかし、皮肉にも、政治的観光PRになってる気がしないでもない。

『ビルマ、パゴダの影で』
という、民族(ビルマ)と宗教(パゴダ)を表す語をつかった、
このタイトルが物語っているようだ。

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tkster

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“ども。 東南アジアのクリエイティブに興味あります。”