2010-12-15

丹波明 講演「音楽における伝統と創造」 このエントリーを含むはてなブックマーク 

偶然とかアイディアとか、そういうものが「降ってくる」ことの僥倖とはうらはらに、それをいくつも並べてみたって、偶然は偶然のままだしアイディアはアイディアのままでしかない。そこに企図がはたらくこと。そのことを思ってみる。

丹波明さんとの出会いは、たいていのことがそうであるのと同じように、たまさかの偶然だった。1通の手紙、1本の電話、それからここ数年の間の、新宿のとある老舗の前で待ち合わせた幾度かのランデヴ。緩慢といえば緩慢に、いくつかの点が打たれ、それを結ぶ線があらわれはじめた。とりあえず、いま見える線の先端には、2011年秋の丹波明コンセール・ポルトレ。これもまた、ただのアイディアなのか? ともあれ、その音楽に触れ、いわくいいがたい静かな驚愕をおぼえ、涵養されつつあるものがある。

この秋のランデヴは、この11月26日に行われた三本の尺八のための新作初演コンサートのための丹波さんの帰国(それとも来日?)の間の出来事。そのコンサート「邦楽 聖会 伝統と刷新X−遥かなりし音 ”今”に誘われ−」は、ゲネプロだけしか聴くことはできなかったが、そこでもまた驚きに満ちた音楽に出会った。丹波さんの『音の干渉 第7番』(演奏 福田輝久 玉井伴和 鯨岡徹)。「邦楽器を使った現代音楽」にありがちな衒いとも気負いともあざとさとも無縁な、「現代の邦楽」を聴いたように思う。プログラムの他の現代作品とは一線を画し、むしろ古典の作品に連なるもの、でありながら、古典の旋律形や形式とは全く異なるもの。そう聴き取る耳の根拠は薄弱だが、確かにそうであったと思う。そのことを話すと、丹波さんは「時間観の違い」と言った。

コンサートが終わって11月30日、青山学院大学短期大学芸術学科で、講演「音楽における伝統と創造」が行われた。著書「序破急という美学」のエッセンスを抜きだして、伝統と創造について、また自身の作曲の書法を通して、新しい創造へ向かう若い人たちに向けられた丹波さんの語りも、異なる時間観でなされた、ような気がしなくもない。

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それは自作「万葉集による5つの歌」の録音を流しながら、伝統(和歌・掛声)、創造(ピアノ・平均律)とホワイトボードに書き記すところからはじまった。

フランスに渡り、その地を本拠地として西洋音楽を学び作曲家となった一方で、日本の伝統、ことに能音楽の研究を続けフランス語でその成果を著した、自身の経験に根差すのであろう、「日本の作曲家は、多かれ少なかれ、遅かれ早かれ、西洋と日本の融合に努力する」ことになり、それは「日本の芸術家が置かれた歴史的意味」であると語る。フランス人ならばフランスで受ける教育=伝統でありそこに齟齬はなく、一方、伝統音楽を禁じることからはじまった日本の近代音楽教育は齟齬を抱えたまま今も続く。

日本の伝統的な創造観、美学の本質にあるのは「序破急」原則である。既に8世紀には中国の舞楽とともに伝わっていた言葉であり、能、文楽、歌舞伎、筝曲、また茶道、華道、連歌、蹴鞠にもそれは見てとれるのだという。序破急とは「特にはっきりとした対照を避け、刺激の量を漸進的に増加させ、時間的構造を確保しようという原則」と定義する。日本人は、少しずつ増加するエネルギーを時間の中に保有している、ということでもある。西洋においては、アルス・ノヴァ以前の古楽には、能と似た構造を取るものがあったが、歯車が12世紀に発明され、13世紀に時計の中に組み込まれて以降、規則正しい拍の時間が音楽にとりいれられた。観念的単位の規則正しい拍の西洋の時間と、次第に大きくなるエネルギーを内包した日本の時間、二つの異なる時間観は異なる創造観をつくりだした。

次第に増加するエネルギーを持つ時間観は、「成る」という言葉であらわされる。ひとりでに「成る」。それは例えば、長い冬の時間を越しながら成長し、花が咲き、実を結ぶ、広がり強まっていく自然の時間観と結びつく。一方、ヨーロッパの規則正しい時間観では、エネルギーは人間が作り出すものであり、個人の創造意識を涵養する。宇宙の開闢の認識でもその違いは顕著で、聖書では「神が光を創った」のであり、古事記では「重い物は下に降り地に成った、軽い物は上に上り天に成った」のである。西洋以外の国では同じく二元論的軋轢があるに違いないが、日本は地政学的位置から、他の文化と接し、入ってきたものは受け入れて「成る」「成らせる」かたちで文化が培われるという、固有のあらわれかたをしている。

そのように、序破急とは創造主を必要としない、「ひとりでに成る」創造観である。それに基づいて、現代において音楽を創造するためのプラグマティックなアプローチとして、フェシュナー(フェヒナー)の法則を用いる手法が説明される。
 S=K×log2×R (S=増加量、K=定数、R=刺激量)
この式は、人間の感覚量は基準となる刺激量の対数に比例することを示している。また人間が感覚的に変化を認知しうる最小の刺激量を導くことができる。これを用いて、音楽における刺激量、すなわち音の高さ、速度、強度、密度を制御し、漸増する時間エネルギーを内包する音楽を創造する、序破急の作曲書法を考えるに到ったという。

江戸時代の作劇論「戯財録」には、この数式に基づいたかのような記述がある。七幕から成る歌舞伎の、一幕が100枚ならば、二幕は6-70枚、三幕は4-50枚…と徐々に短くしていく戯作心得が記されているのだが、それは前述の式の定数K=0.65としたときの計算結果と符合する。それを、実際に電卓を使って計算して確かめてみせる。

その序破急の手法を用いて作曲した〈Turbulences〉(乱流)を聴く。またその楽譜が回覧される。

そして最後に、将来は音楽はコンピュータによって演奏され、人が楽器を演奏する音楽は古楽となっていくだろう、と「予言」する。そのコンピュータによる音楽創造のひとつの目安として、試みとして、この序破急の手法を提示するのだ、と話は閉じられた。

序破急の数式についての会場からの質問に、定数Kも、刺激量の選択も、作曲家の自由に、また経験と美意識に委ねられている、と答える。そして、用いる対数log2の真数2は人間の可聴域に対応し、ロボットに聴かせるならば対数の真数2は5にも10にも増えていくだろう、あるいはロボットで確かめなければ人間を破壊することもあるだろう、そういうところにきているのだと、予言はいささか暗澹たる方向へ修正された。そして講演終了後、「ロボットに聴かせるのは、ロボットを楽しませる音楽のことかと思いました」と語りかける学生に、あらためて、兵器にも使われうる音の両義性を説くのを聞いた。

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日本とヨーロッパ、二つの伝統に身を置いてそれぞれを見据えながら、現代の創造に取り組み、将来の音(楽)のありようも幻視する。丹波さんの話を聞きながら、「空気の疎密波のある配列を美と聴きなすことの不思議」に思い至る。丹波さんはそこに、〈音楽の不思議〉でなく、〈音楽のエチカ(倫理)〉を見ている、に違いない。

*YouTubeで、丹波さんの『音の干渉第6番』(尺八ソロ)をみつけました。第7番と同じく福田輝久さんの演奏。7分過ぎからが丹波さんの作品です。


キーワード:

丹波明 / 序破急


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