2011-07-09

変奏曲 〜cent vingt-deux jours の主題による〜 このエントリーを含むはてなブックマーク 

父がいつも鞄にいれて持ち歩いていたエッシェンバッハの単眼鏡を、いまは私がいつも鞄にいれて持ち歩いている。彼がそれを覗いて何を見ていたのかは私は知らない。使っているところを見たこともない。いつも持ち歩かれていたそれは、やはりいつも持ち歩かれなければならない気がして、それでいつも持ち歩いている。

それは覗いて遠くを見るためのものなので、時々、覗いて遠くを見てみる。自転車をとめて、野川のほとりで、シラサギや、鴨や、空や、川面や、春には菜の花や、今なら繁れる夏草を、眺めてみたりする。自分の目とは焦点を結ぶ距離が著しく違うので、覗くとはじめはぎょっとして、見えているこれはどこだ?なんだ?と思ったりする。見えている〈それ〉はそれ以外の何ものでもなく、〈そこ〉はそこ以外のどこでもないけれど、私の視覚が構成する世界に存在しないはずのものが、私の認知に突然闖入してきて、うろたえてしまったりする。そのうち、空間パターンを了解して、〈それ〉が何で〈そこ〉がどこであるかが定位され、私は新たな世界との関係を築いて安心する。

安心する?

単眼鏡を覗くことが、トポロジックな連続性を断裂させないと、どうしてわかる?
レンズを通して近くにみえる〈それ〉と、裸眼で遠くに見える〈あれ〉が、同じものであることを証明せよ。と、誰にも言われていないけれども、私にはどうも確信が持てない。
拡大されたアワダチソウの花。遠くにみえるアワダチソウの群生。単眼鏡を目にあてる一瞬に〈それ〉が変容していないことを、どうやったらわかる?

私にはどうも確信が持てない。

ガラスのコップ。水の入ったガラスのコップ。コップを手にとって唇に近づける。ふいに、これはなんだろうと思ってしまう。このかたさ、この手触り、この冷たさ、この重さで、同じように見える何か別のものを手に取って口をつけ、さらさらとした冷たい透明な水によく似た何か別のものを飲み干しているのではないか。という考えに気をとられて、コップ(あるいはそれによく似た何か)を落す。水(あるいはそれによく似た何か)が零れる。5歳ぐらいのころの記憶。

便器の木の蓋。汲み取り式の和便器には、木の蓋がついていたのだ、その昔。そのようなものがあった時代の子供だったのだ、私は。蓋には同じ木製の持ち手がついていて、手掛けの穴につま先をつっこんで、足で蓋を閉めるという遊びをはじめる。不意に、その〈もの〉につけられたふたという〈なまえ〉がひどく不思議に思えてくる。なんでふたっていうんだろう。つま先にかかる重さを持ったそのものとその名前が同じものをあらわしている気がしなくて、「ふた、ふ、た、ふ、た、ふ…」とつぶいているうちに、気の抜けたつまさきから蓋ははずれて落下する。便器の中の、はるか下方に。その蓋がどうやって、戻ってきたかは覚えていない。怒られたかどうかも覚えていない。「ふ、た」という響きのたよりない奇妙さだけ、ぼんやりと、チェシャ猫のにやにや笑いのように、覚えている。

これは、世界が揺らぐと、ひとは物を落す、という教訓。

ではなくて。

おそらく確かなものであったであろうコップや蓋を弄んで/コップや蓋に弄ばれて、あるがままの世界を疑ってみたりする、そういう遊びの好きなこどもは、あるがままの世界を疑うおとなになったりする。あるいは、「あるがまま」の複数性を探す人間になる。

単眼鏡を覗いて、私は去年の花を見たいのだ。おととしの月を見たいのだ。10年前の火山の噴煙を見たいのだ。そこにあるものによく似た、そこにないものを見たいのだ。かつての持ち主が見たいつかの何かを見たいのだ。かつての持ち主がいま見ていたはずの何か、を見たいのだ。それはあるはず。どこかに。たぶん。きっと。おそらく。
願わくば。

父がいつも使っていたボールペンを、いまは私がいつも使っている。それは文字を書くためのものなので、時々…。

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