アップリンクで3月から上映されるドキュメント映画「プリピャチ」。
その試写会に行かせていただきました。
「プリピャチ」は、モノクロで音楽無しで語られる画面ですが、それがとてつもなく現実そのもので、
しかもどこかイソップ童話か何かのようにあまりに寓意的なおかしさがありました。
チェルノブイリ原発事故から25年目の昨年、3.11 そして福島原発事故があり、
たくさんのチェルノブイリや原発に関連する映画を見ましたが、「プリピャチ」を見て、
それまでとまた違う感覚を覚えました。
ある場面では、昨年見た映画の一つ、本橋成一監督の「アレクセイと泉」を思い出しました。
でもその2つの映画の持つ意味合いは全然違うものです。
「アレクセイと泉」は、元から昔話のようなほとんど電気を使用していない村の話。
しかもウクライナではなく、チェルノブイリから確か180キロ位も離れたベラルーシの村で、
自然豊かだった村は、事故により汚染され、村人、特に若者は村を去って行った。
そこに一人残っている若者と、奇跡的に汚染されずに残っている泉の話だった。
かたや「プリピャチ」は、チェルノブイリ原発を抱えるウクライナの、
しかもチェルノブイリ原発から30キロ圏内どころか4キロの、
チェルノブイリで働いていた人々の住んでいた町。
「プリピャチ」は、「アレクセイと泉」の村とは一番対象的な場所でもある。
でも放射能は差別しない。
原発の恩恵を受けた人も受けてない人も、原発のために働く人も、
原発の存在すら知らなかった人も。
放射能は差別したりなどしない。
放射能は差別しないけど、そこに違った意味での差別は厳然とある。
それは、情報の差、そしてその情報を動かしているものの事情の差でもある。
放射能について、何も知らされずに救援に馳せ参じた若者は短時間に致死量の被曝を受け、
住民だった技術者は注意深く被曝を最小限に抑えるよう努めた。
生死を分けたのは情報の差。でも技術者も被曝していて、心の傷は深い。
「プリピャチ」や、原発から180キロ離れた「アレクセイと泉」の村。
そして、福島の現状や、日本の各地の原発や世界中の核のことなどを考えると
世界はこんなにも近くて、関係なく存在しているものなどないと感じます。
おかしな、おかしな、おとぎ話の中にいるのは見ている私達も同じかもしれません。
もちろん、今現在こそ、身心の傷の深さは違いますが、、、