2012-04-19

『こわれゆく女』クロスレビュー:あるがままの狂気を描き、“アメリカン・インディペンデント”色に彩られた『媚びない映画』 このエントリーを含むはてなブックマーク 

「こわれゆく女」を観て、いかにも70年代の映画だと思った。どこが70年代風かというと、一言で表現するのは難しいが、『媚びない映画』とでもいうのだろうか、観客の評価を意識した、妙なへつらいが無いのである。それでいて、時にスリリングな、時にユーモアを帯びた場面など娯楽的要素も随所に盛り込まれているところが、50年代から60年代にかけての所謂“ヌーヴェルヴァーグ”風な作りとは異なる点であって、まさに“アメリカン・インディペンデント”色に彩られた映画ではないかと思う。

少なくとも、現代においては、「こわれゆく女」のようなセンシティブなテーマを扱う映画作りは難しい。同じ精神障害者を主人公に据えた映画であっても、企画段階で乗り越えねばならない様々なフィルターがあって、ジーナ・ローランズ演ずるところの、あるがままの狂気(それゆえ、稚気に満ち、愛すべき要素を含んだ)を盛り込んだ脚本は、受け入れられないのではないだろうか。というのは、これ以降、80年代から現在に至るまでの間(米国ではすでに70年代後半からその萌芽は生まれているが)に、映画製作の現場は大きく転回し、興行収入の予測を織り込んだマーケティング主導の映画作り、いわば『市場との対話』を抜きにしては、一歩も進まなくなってきたという現実があるからだ。仮に、現代において「こわれゆく女」を同様の素材で企画したとして、出来上がるものは「危険な情事」のようなホラーになるしかないだろう。

日本国内においても同様で、最近はやりの製作委員会方式なるものは、映画製作という『イベント』の『市場的価値』を証券化してスポンサーなる『投資家』に小分けして販売するようなものであって(現実に製作委員会のSPC(特定目的会社)やLLP(有限責任組合)などの法人化の動きは、映画の金融商品化そのものである。)、そこで検討されるのは、観客動員数や興行収入の予測であり、スポンサー向けプレゼン手法であり、投資収益・利回りであって、『売れる』ことを意識しないで、作り手の自由に任せるような製作環境からは、ますます遠のいた地点をスタートに、映画人は企画を練らなければならない。それが当たり前のことになってしまっている。

そうした時代の趨勢にあって、「こわれゆく女」のような映画を観ると、妙に懐かしいような、ある種の清々しい気分すら覚えるから不思議である。冒頭に『媚びない映画』という言葉を使ったのも、現代の映画作りに対する一種のアンチテーゼとしての価値を、まさに『インディペンデント映画の父』と称されるジョン・カサヴェテス監督の手腕に見出すからにほかならない。

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M.-Cedarfield

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