2012-06-07

『少年は残酷な弓を射る』クロスレビュー:親子のつながり方 このエントリーを含むはてなブックマーク 

見終わってすぐの率直な感想を書きます。
①親子のつながり
「親子だからわかりあえるはず。愛せるはず」
という一見常識的なものの見方や希望的観測が生むパラドックス。
親子だから、という縛りが主人公のエヴァ(お母さん)を苦しめる。
息子のケヴィンは自分の母が自分に対して戸惑いと恐れを抱いていること、母がそれまでの自由な生活を自分の妊娠によって中断されたことに対しやり切れなさを抱えていることを、母との関わりを通して幼い頃から感じ取っている。
そのことを認識し始めた時、ケヴィンは徐々に冷酷さを表に出し始め、行動がエスカレートしていく。その行動は母を更に困惑させる。
親子でも、わかりあえる訳ではない。
家族の絆をつなぐ存在である父親が抱く「親子の愛」幻想によって、その大事な事実は母子それぞれの心の隅に押し込められ、ケヴィンの心はいつしか歪められてしまう。

子育ても、人間関係の一つなんですね。
正解はないのに、夫の掲げる理想の「親子の正しいあり方」に縛られていく。
そこに愛があるはずだから…
子役は何人か出演していますが、誰もが愛らしい。愛らしいだけに、向きあってくれない寂しさ、苛立ち、喜び…様々な感情が主人公エヴァに募る様子がわかりやすく見て取れます。
子育て中のお母さんは忍耐の連続だなぁ。。

②「事件」に至るまでの経緯と真意
起こったことに対して後からいろいろな意味付けはできるけれど、本当の理由を理解できるのは多分、当事者たちだけ。
もしくは当事者でさえ、わかっていなかったのかも。。
耐え難い苦痛、不快感を感じながら、それでも離れずに最初から最後まで対峙していく母子。
母は「事件」が寝耳に水の出来事であり、他人の憎しみや憐れみに心をえぐられても、それらを甘んじて受け続ける。
他人と分かり合えないという状況を、痛いほどお互い分かりあっている、親子のつながり。
ケヴィンの犯行の真意はなんだったのか。
苛立ちを社会にぶつけたかったのか。自分から母親を奪うものを、排除したかっただけなのか。

本編ではウィリアム・テルがモチーフとして出てきます。中世の英雄、ウィリアム・テルとは正義の味方なのか、それとも社会を脅かすテロリストだったのか?その定義や解釈は様々です。
ケヴィンの衝撃的な行動は、自分と母親の関係をつなぎとめるための正当な手段だったのか?
単に衝動的で愚かな快楽魔の仕業だったのか?
最後の最後まで、主人公エヴァと共に人の奥底にある感情やつながり方について考え続けていきます。

映画は詩的な映像表現が多く、ぼかせばぼかすほど、露悪で純粋な感情のぶつかり合いという骨格が浮かんできました。これも一つのパラドックスなんでしょうか。

キーワード:

映画 / 少年は残酷な弓を射る


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あき358

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