2012-06-28

『聴こえてる、ふりをしただけ』クロスレビュー:大人も子供も悲しい このエントリーを含むはてなブックマーク 

昔観た映画にこんなニュアンスの台詞があった。「母の死は日毎に実感する。クローゼットの服がそのままだったりするのに、郵便物が減ってきたり・・・」

母を亡くした子は、きっとそう実感して行くのだろう。周りは皆「大丈夫。お母さんの魂はちゃんと見守っててくれるから」と言うけど「じゃあどうして意地悪されたりするの?」と聞かれた時、言葉に詰まる。皆はそう聞かれたらどう答えるだろう?

『私がしてほしいのは「魂が見守ってくれる」事じゃなくて、実際に存在して「居て」欲しいんだよ。いつものように。』多分、彼女はそう思っているのだろう。きっと私自身もそうだと思う。

この映画のサチと同じ小学校5年生の子を持つ親として、もしも自分が死んだら、自分の子もこうなのだろうか・・・。また、自分を小学校5年生に重ね合わせ、もしも5年生の時に親が死んだらこうなのだろうか・・・。と深く考えながら鑑賞していたら、どちらの気持ちにも涙した。

自分が5年生のとき、「どうして大人はそんな事言うのだろう?私が大人になって子供が生まれたら、絶対大人が言うような事は言わない!」と思っていたけど、一番なりたくない母親像に仕上がっている。何故だろう?

この映画の中の父親のように、いっそ壊れてしまえば実は楽なのかもしれない。しかし思った。壊れてしまうように仕向けているのは自分自身なのではないだろうか。大人はいくらでも自分をコントロールできる。壊れてしまうという選択肢を持っている。
だが子供は、壊れてしまう事を知らない。だから大人はずるい。そう思いながらも他方で、
この父親の辛さも痛いほどわかる。
妻を亡くして、子供の前では気丈に振舞わなければならない。頑張らなければならない。
壊れていられない。もっと、もっと・・・

そう思っているうちに壊れてしまうのかもしれない。自分にも似たような経験がある。

一番なりたくない母親像になっているのも、結局自分でコントロールしているのかもしれない。
いつまでもメルヘンの世界ばかりを夢みて生きてはいられない。時間は無情に進んで行く。

人は「時間」によって大人にさせられているのではないだろうか。
物質はそのまま残っても、またそこに浮遊する埃がかぶっても、時間は無情に流れて行き、日常はこれからもずっと日常なのだ。

だから人の心には「記憶」という倉庫があるのだと思う。映画の中では「心も脳が支配している」というようなシーンがあったが、それでもいい。
記憶=思い出 は、一人一人かけがえのない宝物、いや、それ以上のものなのだ。

このサチが、ただ一言「辛いのに健気に頑張っている」という言葉だけでは表しきれない
彼女の中での心の葛藤は相当なものだと思う。
泣いたり笑ったりの感情表現が上手にできる人ならまだしも、上手くできない人もいる。
その表現できない部分を、この映画は静かに、巧みに映し出している。

本当に悲しくて泣きたい時ほど泣けないものだ。
どうにもならないものを受け入ればければならないと知った時、自暴自棄になるものだ。
でも思い出は宝物。それでもそれだけでは寂しすぎて生きて行けない。諦めようかな。
でもそれじゃ嫌だ。

そんな気持ちの繰り返しで「無情の時間」は進んで行き、これからも「日常」を続けるのだろう。

映画の制作面で言えば、本当に「日常」を映し出していて、あまりにも普通だ。またその普通さが逆に良かった。動かぬ物体が語りかけるというか、例えば
台所のパーンなど「もしも自分が・・・」と重ね合わせて見ると非常に物悲しい。

雨のシーンや、効果的な音楽が、普通ならもっとあって良いとも思うが
あえて多くを盛り込まない作りになっているのが監督の意図なのだろうか。
私はそれも良かったと思う。

看護師だったという二児の母である監督の、子供のみならず、人間の心の機微を
映し出した作品に、今後も期待したい。

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yuri

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