2012-07-22

KOTOKO(2012.7.19.thu@UPLINK) このエントリーを含むはてなブックマーク 

職場のCoccoファンの女の子が東京国際映画祭でこの作品のプレミア上映を見た話を何度か聞いていて、その子との話のネタまでにと、そう積極的でもなく、終映間近に見に行った。

個人的な話だけど、20歳頃に高いところから落ち脳に障害をもってしまった40—50才くらいの方と話したことがある。その方は、なんというのだったか、躁鬱じゃなくて、多重人格じゃなくて、何か名前忘れちゃったけど、幻覚をよく見て、それが現実なのか幻覚なのか区別がつかなくなってしまうのだと言っていた。気付いたら自分がパトカーの中にいて腕が血まみれだった、その次に気付いたときには病院で手足を拘束された状態だった、といった事件も繰り返しているらしい。(警察に、"逮捕"じゃなくて"保護"されるような事件)
Coccoは母親もおばあさんも、本人も子どもの頃からそうした人には見えない存在が見えてしまうらしいから、精神病とは言えないのかもしれない。でも、Coccoだけでなく、そんなふつうとちがう現実認識に苦しんでいる人も世の中にはそれなりにいて、そういう人たちの認識の追体験をしていると思って、見た。

予告編で叫んでるCoccoが痛々しかったし、職場の子の「重かった」との評もあり、見たらちょっと落ち込むかなと思っていたけど、そうでもなかった。あえて、他の人がどう思ったか調べないまま、感想を書いておこう。

冒頭で、小さい女の子が海を目の前に、浜辺で踊っている。形のないフリースタイルの踊り。後から出てくるシーンでKOTOKOがこのような踊りをするので、この女の子はKOTOKOの小さい頃、ということなのだろう。海という大自然に対する/の中の、動物としての人間。
Cocco演じる主役の作品内での名前がKOTOKOと音が似てるのは、半自伝でありつつもanother storyであることを示しているのだと思ってる。職場の子の話ではCoccoはシャーマンのような家系に生まれているとのことだったから、この幼い頃のシーンは、そんな出自をほのめかすためのものなのだと思う。理性で説明のつかない、社会化されないままの人間の在り様。
(よけいなひとことだけど、踊る姿に『ピアノレッスン』のアナ・パキンを思い出した。)

二重に人が見えてしまうこと、幻覚のほうが、自分や自分の赤ちゃんに対し暴力をふるってくる描写は痛々しくて、そんなふうに世界が見えているのだと想像すると、確かに重かった。
暴力から自分や赤ちゃんを守るために、幻覚に向かって防御の攻撃をしていれば狂人にみられるだけだけれど、実在する人のほうを攻撃して傷つけてしまうこともある。それで引越しを繰り返しているKOTOKO。ほんとうに、沖縄の実家に帰って、彼女の症状を分かっている家族が適切に子育てを手伝ってあげられたらいいのに。そんな状態で一人で子育てする様は、危なっかしくて仕方ない。見てて不安にしかならない。

まだ小さな赤ちゃんを抱いているとき、じぶんが腕の力をゆるめたら赤ちゃんは落ちて、死んでしまう。そんな不安が、いちいち幻覚として見えてしまう。"あり得るかもしれない現実"の、不安のほうを描いた作品といっていいほど、彼女がみる幻覚は常に不穏だ。

その例外が、田中の存在。虐待の疑いがかかって赤ちゃんと離ればなれになったときに現れた男。どんなに残酷に扱っても許して愛し続けてくれる、究極のマゾヒスト。
KOTOKOは人の身体を血も涙もなく傷つけるように見えるところがある。特に自分に言い寄ってくる男性に対して。でも田中は、フォークを突き刺された自分の手を眺めていて、KOTOKOが人を傷つけたときに実は自分も傷ついていることに直感で気付き、自分が傷ついたときに彼女が自傷することにもなぜか気付き、彼女の家に駆けつける。不法侵入までするので、彼の直感には何か根拠があったのか。
作品中にその根拠となるものが描かれているとすれば、田中が惚れたKOTOKOの歌声、のみ。
田中は小説家だし、感性とか直感が鋭いのか。その歌声が彼にとってどれだけ人の人格認識に影響を与えているのかまではわからないけど、KOTOKOからどれだけ傷つけられても「大丈夫」と言い続けるのだから、かなり絶対的なものなはずだ。

あり得ないくらいの田中の愛と、田中に歌を聞いてもらうことにより、KOTOKOの精神錯乱状態
が落ち着き、赤ちゃんと生活することが許されたとき、その喜びを報告しようとしたときに田中が消えてしまう。田中は幻覚だった。
このことは、この映画を見てる全女性ががっかりしたと思う!「ぼく、小説かくのやめようとおもってるんです」「やめて何するの?」「あなたを好きでいるという仕事があればいいのに。」なんてね、言ってくれるそんな人がこの世に存在するということが素敵なのに、幻覚だったなんて。(でもこの会話は、田中が、精神錯乱状態の彼女をほんとうに心配していて、手も傷つけられてて小説書いてる場合じゃなくなっているという側面もある。自分の職業を賭してまで好きでいるとも言えるけど)

結局幻覚だったんだけど、この田中の出てくるシーンは笑いあり、女性がうっとりしてしまうような優しい男性像が描かれていて、作品全体の中で光のような、救いのような存在だと思う。
そもそも田中が最初に登場するバスのシーンだって、物憂げにKOTOKOが歌う穏やかなシーンだったし、次に田中が登場するシーンの「バスの中で歌っていたあなたを、つけてきたんです」「ストーカー?マジ?」ってところからも、少し軽いノリがあって。重くない。自傷しているKOTOKOを発見して慌ててタオルを準備するのだって、ドタバタがコメディみたいで。

赤ちゃんと再びいっしょに暮らすようになったのに、KOTOKOは自分の赤ちゃんが自分の知らないところで殺されてしまうくらいなら自分が見ているところで自分が苦しまないように殺してあげたほうがマシだと思い手をかけてしまう。それが現実なのか幻覚なのかKOTOKOも鑑賞者も分からないんだけど。

でも最後の最後、どうやら一命をとりとめて成長していた子どもが登場するシーンは、子どもの優しさにあふれていて、本当にいいシーン。去ったと思ったら手だけのばして振ってくれるお茶目なところとか、子どもしか知り得ないふたりだけの合図のような仕草を、彼が成長しても覚えてる。それは、普通のお母さんではなかったし手をかけてしまったけど、KOTOKOが彼のことが本当に大事で愛していたことを分かってる、覚えている、という合図でもあるから。

キーワード:

KOTOKO / Cocco / 塚本晋也


コメント(1)


  • 1000 2012-07-22 02:44

    余談。

    Coccoがほんとうに美しかった。年齢考えると驚愕なまでの美肌。造形も改めて、美形だと思った。
    そして劇場外のショップにあったCocco料理本の前書きに「食べるのを忘れることがある」とあったのを何度も思い出した、痩身さ。ダイエット目的で食事を我慢した場合の痩身とはレベルのちがう、横からみたときのぺたんこさ。でもなぜか病的な感じがしない。神聖に思える。

    あと街で男に声かけられたときとか、ドアをドンドン叩く酔っぱらいに「じじー。死ね。」と軽く言い放つ様が、Coccoの素を見てるみたいな気分になった。
    でも料理本前書きにあったような、よく差し入れして評判がよくてそれを喜んでるような普段のCoccoも見てみたかった。この作品はCoccoの暗黒面だけを描いていたような気がするからね。

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