2012-07-30

大口叩いて炎上マーケティング?〜『フェイシング・アリ』クロスレビュー: このエントリーを含むはてなブックマーク 

 モハメド・アリ、というボクサーの名前なら、特別ボクシングのファンではないボクでもよく知っている。特に1960年代前半生まれの我々の世代にとっては、単なるボクサーとしてだけではなく、当時のアメリカの黒人社会に与えた影響力のあるアスリートとして、さらには年中物議を醸す言動や行動、やたらと大口を叩き挑発するその態度を幾度となく、テレビの画面でリアルタイムに経験しているからだ。
 
 そのモハメド・アリのドキュメンタリとして、ピート・マコーマック監督がとった手法がとてもユニークだ。それはモハメド・アリ本人ではなく、モハメド・アリと闘った10人のボクサーに取材し、話を聴いてモハメド・アリというボクサーを浮だたせて行こうというやり方だ。
 
 だから映画はまるでモザイク、あるいはコラージュのように、色々なパーツがバラバラに組み合わさって出来ている。登場する10人はそれぞれ「モハメド・アリと闘ったボクサー」という共通点のみについて、思い思いバラバラにアリについて、そして自分について、その当時のボクシング界について淡々と語って行く。潰れた鼻やしわがれた声、顔に刻まれた深いしわが歴戦の激しさと彼らの強さを見せ付けてくる。

 当たり前のことだが1人1人の話す内容はてんでバラバラだ。勝った者もいれば負けた者もいる。彼らの向いている方向もアリに対する考え方も全然異なる。
 
 だからこそ映画が進むにしたがって、モハメド・アリというボクサーの姿が徐々に浮き出して見えてきて、そして最後には、まるでホックニーのコラージュのように、様々なパーツがでたらめに組み合わさっているようで、でもしかし、それは一枚の風景であるかのように、モハメド・アリの姿が大きく浮かんでくる。

 映画でこのような体験ができるというのは、そうザラにあるもんじゃあない。とても新鮮で面白い創り方だと思うのだ。まさにドキュメンタリならではのスリリングさ、なのだろう。
 
 そしてその浮かび上がったモハメド・アリの姿は、やはりコラージュのように、観るヒトによってまるで印象が異なるに違いない。
 
 観るヒトの立場、経験それぞれが異なる判断基準、すなわち「オレルール」を持っているからそれは当たり前なのだけれど、ボクには大口をたたき相手を挑発する自信に満ちあふれた若く強いボクサーであり、相手を挑発したり物議を醸す行動を撮ることによって注目を浴びる、今でいう炎上マーケティング的な戦略を、テレビジョンというメディアを使って実践したとても頭のいいヤツ、という印象が強かった。
 
 いやたぶん、間違いなくアリは頭のいいボクサーだったのだろう。本人が直接語らなくても、旧いアーカイヴのフィルムや試合のビデオなどからそれは伺える。何よりも直接リングで対峙した相手が語る言葉に重みがある。伊達にヘヴィ級の身体を持っているだけではない、ホンモノの説得力とでもいえばいいのか。辿々しく思い出を語る老ボクサーたちの言葉の端々に、モハメド・アリという優れた才能と能力を持ったヤツと闘った誇りや喜び、何よりもアリをリスペクトする気持ちが滲んできているのだ。リング上での「敵」は、リング外では全く異なる存在になる。その相手が優れていれば優れているほど、勝ち負けに関係なく「頭のいいスゲエヤツと闘った」ことが、誇るべき勲章なのだ。
 
 ラストシーンで、現在のパーキンソン病に侵されたアリの姿がほんの数秒だけ映し出される。その顔はかつての大口をたたくワカゾーでもなく、衰えて若い挑戦者にたたきのめされた老チャンピオンでもない、とても平和で優しい顔をしたまるで菩薩像のようにこどもを抱いているオトコだ。
 
 彼と闘った10人がそれぞれ、老いてもなお闘う男の顔をしているのとは全く逆の印象的なその姿に、何かしらホッとしたような安心感というか、柔らかな泡に包み込まれるような気持ちよさを感じた。彼ら10人の誇りを、もしかしたらアリは潰さないように、今を生きているんじゃないか、と。 

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