2012-08-21

アイコンとしての障害者~最強のふたり~ このエントリーを含むはてなブックマーク 

8/20 GAGAの試写会枠にて(朝日浜離宮小ホール)。

この映画で本当に訴えたいことってなんだろうか。
見ているときから違和感がぬぐえない。この違和感はなんなのか。
友人と話して気づいた。
”障害者は、この社会において、健常者が善人ごっこをするためのアイコンだから”
”ゲイが、西欧文化圏において、権力者がリベラルで多文化共生なポーズをとるためのアイコンであるように”

ノーマライゼーションという言葉はボクが中高生のころに社会科で習った気がする。
今回の試写会では車いすの方にも配慮をしてフラットなスペースを確保して~と案内があった。なるほど、そういう配慮は確かにあまりなかったな、と思って会場へ。
肝心の車いすの方がどのくらいいらっしゃったか。

2名。

果たして、これはノーマライゼーションなんだろうか。なんだか、名目としての招待枠くらいじゃないか、と思ったりもする。もちろん、ボクたちは健常者であろうと障害者であろうと一緒に(望む望まざるを問わず)生活をしている。Living Together。
一方的な啓蒙はなんだか違う気がする。でも、今回のような試写会もなんだかちがうような気がする。それは冒頭に書いたことから来るような気がする。
健常者側の勝手な思い込みから来る、配慮という名の押し付け。

ジャーナリストの乙武氏、お笑いのホーキング青山氏。
いずれも私たちは彼らの発言に対してその一つ一つに驚かされることがある。それをネタとして言ってしまうのか、と。そう、ボクたちが自制していることが本当に彼らのためを思ってのことなのか、建前として繕っているだけなのかが暴かれてしまう。そこに小気味よさを思うか、居心地の悪さを感じるか。
問われているのは実はボクたちなのだ。

「こんな夜更けにバナナよ」(北海道新聞社・2003・渡辺一史)にあったように。
「ボランティア拒否宣言」(機関紙すこたらさん・1986・花田えくぼ)で描かれたように。

「くたばれ! ハリウッド」を見てボクたちは笑っていたけれど、笑われていたのはボクたちだった。
そういうことなのだ。

手放しでこの映画を称賛する人を決してボクは信用しない。

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ひろ

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