2012-11-01

魔法に魅せられて/中島吏英  David Toop このエントリーを含むはてなブックマーク 

2012年8月23日
デビット・トゥープ

 カフェオト、ロンドン、2012年8月12日、午後9時。温かい夜。たくさんの人でにぎわっている。足の低い机がステージに向いておかれている。 時々、子供たちが一緒になってすわり、道端に古くなったりいらなくなったりしたおもちゃを置いて、誰かがいくつか買ってくれないかなと思いながらいる感じ。そんな様子に見える。プラスチックのバケツ、カップ、あっちこっちに植物のように這っているワイヤー類、電機部品のスクラップ、名前のない小さな装置。中島吏英は、彼女のマーケットの店主のように、とても静かに厳かにそこに座っている。パフォーマンスは始まっていない。けれどすでに事は始まっている。私たちは惹きこまれる。

 あちこちで絶え間ない動きが始まる。カチカチ。振動する表面。リズミカルなサイクルがフェイズにあわせて入ったり、出たりする。時計職人が夢想の世界に入り込むように。でも、彼女はとても用心深く、彼女の子供たちを見守り、トラブルから守る。小さなもの、おそらくビーズをコップに注ぎ込み、それを震えているプレート上にひっくり返し、同じ別のプレート上で脈打つピンポンボールを持ち上げ、小さな素材の入った別のコップを注意深くこの同じプレート上にひっくり返す。内側に隠された何か-たぶん色とりどりのプラスチックの粒が-が闇の中で踊っている。

 驚くほど早く、時が経つ。部屋が複雑な時計仕掛けになっていたからだろう。急がされ、忙しい。チックタックという音があらゆる方向に動いている。まるで時間がばらばらに解体された身体のように、どんどんと身体から離れていく。そこには「前に進む」という概念はない。「今」とか「それから」とか「永遠」という言葉を失う。

 そして、彼女は止まり、正面を向いて、微笑む。この時間の区切りが今宵の音楽の最後を指している。たくさんの拍手が会場を埋めている(私たちは、みな、この小さな音楽の魔法にかけられていたのだ)。でも、機械はその後もしばらくの間動き続けている。昆虫のように、彼らは人間にも、人間の考えるパフォーマンスの概念にも、その契約のルールについても無関心だ。

 カフェオトはとてもいい会場だけれども、そっと抜け出すことのできないことが難点な場所だ。即興演奏者の多くは、もしその日、自分が演奏するのであれば、他の者の演奏を聴くことは稀だ。私は演奏の達人ではないし、毎日何時間も練習したり、定期的にギグをやったりもしない。私のやるすべてのことは、疑問を持つことであり、移ろいやすい。素晴らしい即興演奏を自分が演奏する直前に聴くことは、とてもひどい結果になり得る。猜疑心が闇から浮かびあがり、可能性の場に忍びこみほのめかそうとする。「なぜ、こんな風に演奏できないんだろう?」猜疑心は私に聞く。「なぜ、そんなにも静かに、大きな音で弾こうとするのだろう?なぜ、今よりいい演奏ができないんだろう?」私は答えられない。

 楽しいのも問題だ。普通なら、私は演奏をする前にものすごく楽しくなってしまうことを避ける。デレク・ベイリーがかつて、年を取って得するようになったと言っていた。プロモーターは、彼が移動であるいは、その過ごしてきた時間の長さから、疲れ果てていると考えて「どうぞ、お休みになってください」と言う。デレクは喜んでそうする。誰と会話もしなくていいということだし、それによって本来の仕事「演奏する」ということを邪魔される可能性がないからだ。

 それでも、この夜の中島の小さな魔法にとても興奮した。そして、とても満たされて、ほとんどすぐ後にでも演奏したくなった。猜疑心からくる問いからも解き放たれたと感じた。この猜疑心の悪魔は、ある種の音楽家たち-暴力的とも言える特異な目的意識から結局、狭い教義に陥るような人々-から発せられることがある。あたかも彼らの作品が、彼ら以外の存在を排除しようと設計された武器かのように。芸術家として中島もこのような特異性を持っている。けれども、彼女の沈着さと集中は、結果的に自由さを産み出している。おそらく、そのパフォーマンスがとても強い意志と熟考された受身の姿勢を持っているからだろう。

 デビット・カニングハムが観衆の中にいた。彼が彼女を見ているのを見て、リチャード・クックがジェネラル・ストライキのアルバム「天国での危機」のライナーで書いた一説を思い出した。スティーブ・ベレスフォードと私がデビットのブリクストンスタジオで作った音楽は、クックによれば、「エルフのおもちゃ屋さんのまじめな午後のコンサートに誘われて、その魅力に引きずり込まれた」ようだったのだろう。

 その他にも次のような人々の作品が頭をよぎった。ピエール・バスティアン、彼のメカニウムとトランペット(ピエールはむしろピノキオ機械オーケストラのゼペット爺さんだが)。マックス・イーストリーのソニック・オートマタ(部分的にはサウンドインスタレーションであり、部分的には人工生物である)。ロルフ・ユリウスの小さな音たち(特に彼のMiki Yuiとの美しい録音を)。鈴木昭男の最もシンプルな仕掛けで術をかけるやり方、ポール・バリーという作家の動く彫刻も思い出した。1960年代に最初に見たときに、そのゆっくり動く、果てのない極小オーディオ彫刻に魅せられたこと。しかし、これらのどの前例も、もしこれらを前例として描くべきならば、ぴったりとはこない。私が持つこれに最も近い経験は、チェンマイのマーケットの露店、電器仕掛けの鳥が同時に店主に向かって鳴いている光景で、彼女の仕事は絶え間なく夕暮れの電子音の鳥の歌の中に埋没することだった。

 今週、私はいくつかの質問に新聞のインタビューで答えた。そのひとつは、フォーマルなコンサート環境以外の場所で音楽を作ることをどう思うかというものだった。私の正直な答え(彼らに言ったものではないが)を答えるとすれば、世界中のコンサートホールを集めて海に捨ててしまえ!というものだ。私は、もはやそういう場所の中で起きることにもう興味はない。私が魅了されるのは、彼女がやったように魔法にかかる瞬間なのだ。

翻訳:田多知子/写真:David Toop

元記事
http://davidtoopblog.com/2012/08/23/falling-under-a-charm-rie-nakajima/

中島吏英HP
http://www.rienakajima.com/

キーワード:

音楽 / 美術 / パフォーマンス


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田多知子

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