2012-11-06

『チキンとプラム~あるバイオリン弾き、最後の夢~』クロスレビュー:『芸術家』について このエントリーを含むはてなブックマーク 

 この映画の感想を述べるにあたってまず私たちが考えておかなければならないことは、芸術家とは何者なのか、どうそこにあるべき人々なのかということだと思う。斬新な映像表現やら並び替えられた時系列トリック等について賛否を送るのは評論家の仕事だ。

 本作『チキンとプラム』の主人公、ナセル・アリは音楽家である。非凡な才能を持ったヴァイオリニストであり、その肩書きから私たちが思い描くであろうおよそ全ての要素が当たり前のように詰め込まれている。極めてエゴイスティックでロマンチスト、そしてキャッチコピーの通り彼は自ら『死ぬことにした』、異常なナルシスト。

 映画の軸になるのはその音楽家と、絶世の美女イラーヌとの悲恋である。運命的に出逢い恋に落ちる二人だったが、結婚に猛反発するイラーヌの父親により二人は引き裂かれてしまう。
 ナセル・アリは芸術家だ。しかも『まだ』芽の出ていない芸術家。彼の魂は理解されない。芸術家?わからないけど、自己愛の固まりで夢見がちでナルシストで、きっと金だって持ってないんだろう。そうに決まってる、そんな奴に娘はやれない。大抵の場合それは大正解だし、イラーヌの父親だけじゃない、誰だってそう考える。観ながら、対する二人の諦めが良すぎるだろうとは思ったものの私が父親でも結婚なんてきっとさせない。名声も富も無い芸術家なんて、文字通り馬の骨でしかない。

 しかし人々にとって馬の骨でしかなくとも、芸術家は芸術に於いて孤高の人である。頭の良いイラーヌはそれを理解しており、同時に、大衆に支持されない芸術家は芸術家たり得ないこともわかっていた。才が花開くかどうかはあまり関係無しに本質的な彼を認めていたのだ。
 ナセル・アリが二十年間イラーヌという女性を引き摺り続けたのは、彼女がそこまで理解していたという確信を持ち続けていたからである。しかしその確信は彼が現実に家庭を持ってしまった時点から、ロマンチシズムでコーティングされた甘えや自己愛の固まりへと姿を変えた。『彼女はたぶん、何年寄り添おうとも、激昂して僕のヴァイオリンを壊したりはしなかっただろう』。心の拠り所、最後の砦。なにより正しいはずだったのに、叶うことのなかった選択。二十年かけて築き上げたその砦が一撃で叩き潰されるクライマックスまで、彼はそれによりなんとか命を繋いでいたということに他ならない。

 メルヘンだとかコミカルだとか、フランス映画独特の雰囲気が素敵だという感想をよく目にするが、それはこの映画の表層的な上澄みであり、商業的に加工されたアイコンに過ぎない。
 特筆しておきたいのが、優秀な弟と比較されたナセル・アリが、心ない教師に『彼は悪いタネです、みんなでブーイングをしましょう』などと言われ、クラスメイトから大ブーイングを浴びせられる回想シーン。試写会では大きな笑いが起こっていたのだが、私は笑っている人々の感性を疑ってしまった。コミカルに描いてはいるがあんなもの、とんでもないトラウマ精製エピソードでしかないはずだ。皆の笑い声が恐ろしく聞こえたほどだった。この映画を見て『ドリーミーでロマンチックで、切ないけど胸が少しほっこりする物語』だとかなんとか書いてる人がいたら私と二人きりにしないで欲しい。一緒にピクニックとかハイキングには出かけられない。

 マルジャン・サトラピ監督はインタビューで『ナセル・アリはもっとも私に近いキャラクター』と発言している。今作も舞台は前作『ペルセポリス』と同じ、イランはテヘランである。サトラピが漫画家、そして映画監督と花開いたように、ナセル・アリもイラン・イラク戦争を体験した上で芸術家を志し、ヴァイオリニストとして一世を風靡することになる。

 私たちがこの『チキンとプラム』から学ぶべきことは、表層的な恋物語の切なさや斬新な映像美等ではない。ましてや『あの奥さんかわいそう!』とかでは断じてない。人間の心の脆さ、そしてなによりなんの救いもない『死』というものについて、消え去ってしまうということについて、いま一度考えてみてほしい。

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ryu

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