2012-12-18

『アルマジロ』クロスレビュー:兵士達のリアリティを思考停止になる前に観てほしい このエントリーを含むはてなブックマーク 

「戦場」という“場“のリアリティが、画面に溢れている。それは、若い兵士達が体験する「現実」というよりも、変遷する「心の中」のリアリティだったと思う。

(ドキュメンタリーとしてみると、息子達を送り出すデンマークの家族とのやりとりや、荒涼とした美しくさえあるアフガニスタンの風景に、ドラマのような調和感を感じる面もあるが、ただ、それを含み置いても、余りある程の「戦場」のリアリティがそこにはある。)

兵士達が任地へ赴き、休憩時間に戦闘ゲームに夢中になる様子はごく普通の青年達に見えるが、荒野の中での戦いの場では死と隣り合わせとなる。

きっと彼らに限らず、戦場という抜き差しならない状況の中で銃を取れば、現場で繰り広げられるのは反射的な行動であり、その結果は思考停止にならざるを得ないことが、この映像を通して理解できる。そこにあるのは「思考」ではなく「反射」。そこで徐々に顕在化してくるのは、圧倒的なまでの感性と思考の欠如への道のりのように感じる。

ある青年は、部隊の命令により敵の陣地に爆弾を打ち込むが、その結果、民間人の幼女が死亡する。その遺体を目撃した当初は罪悪感に苛まれるが、最終的には正しいことをしたのだから仕方がないと、自分に言い聞かせ、皮膚感覚で感じた感情を切り捨てる。
一方で、デンマーク兵達は仲間の死を悼みながらも、同時にアフガニスタンの民間人達が家を壊され子供や母を亡くしたと訴えてくると、これは避けられない戦いだと慰めながらも事務的に見舞金を手渡す。

彼ら自身が向かっている場所はどこなのか。彼らが現地の民間人に与えていることは何なのか。その事について、深々と配慮したり理解したりする状況の中に彼らはいない。 

そして、そんな一例としても現れているのは、ある若い兵士は、実践の戦いの中に今までの平和な日常の中には無い、物事を自分自身でやり遂げたという感覚を覚えるという発言のような気もした。兵士達の表向きの目的は地域の安全や民間人の保護だが、彼らは彼ら自身の人生の為に戦地にいっている。生きる希薄さを埋めるために、戦場という非日常的なその場から現実に生み出されるているものに、目を向けることは希薄になる。

ふと、この映画を観ていて、思い出したのは、マザーテレサのあるエピソード。
それは、彼女が反戦のための集会に招かれたのを断り、もしも平和のための集会であれば参加する、と答えたという逸話だ。「反戦」というものが、既にあるなにかに対抗する一つの戦いの始まりである、という見解も含めての意思表示と思われるが、今の平和維持活動の根底にもこうした意識が流れているかぎり、それは平和維持をうたいながらも、逆説的に一つの「戦争」を進めているということになるのだろう。

多くの人に、この映画を通して一人の兵士としての体感した後に、まだ兵士ではない立場から深く思考して欲しいと思った。誰にでもそうなる可能性があり、もうすぐそこまで来ているように思われる、もしくは始まっている、「思考停止」になる前に…!

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Erice Soy Ana

ゲストブロガー

Erice Soy Ana

“手のひらサイズの箱庭のような世界を作りながら、空と大地と世界を浮遊していきたいです。”