2013-02-02

『故郷よ』クロスレビュー:夢の入る隙間などない このエントリーを含むはてなブックマーク 

ナターシャ・グジーという、チェルノブイリからわずか3キロほどの街「プリピャチ」出身の歌手がいる。
半年ほど前、彼女のチェルノブイリ事故のインタビュー記事を読み、その美貌と胸を打つ歌声とともに、プリピャチという地名が深く印象づけられた。
だから『故郷よ』という映画がプリピャチを舞台にしていると知り、どうしても見たいと思った。
映画は実際にチェルノブイリ事故で廃墟となったプリピャチで撮影されている。
ナターシャ・グジーの語った街の風景を映像で見て、さらに感慨深かった。

多くの日本人も同じであるだろうが、私も福島の原発事故がオーバーラップして、とても苦しい鑑賞になった。
光あふれ、のどかな風景が広がる冒頭。
だが美しい街のすぐ背後にはチェルノブイリ原発が迫っている。
真夜中の事故から一夜明けても、なにも知らない人々は、4月の温かい雨に打たれてはしゃぐ。
「雨に濡れないで!ああ、せめて家に入って……窓を閉めて……」と、スクリーンに向かって叫びたくなる。
福島の事故のあと、数日して初めての雨が降った日、夫と暗い顔を見合わせ、「子供たちが雨に濡れないように、ちゃんと傘をさすように言おう」と話し合ったことがよみがえったのだ。

現在も未来も続く悲劇の始まりだから、どのシーンも救いがたく暗い。
幸せに輝く結婚式のシーンも、見る側には、この結婚が事故によって壊れてしまうことがわかっている。
放射性物質をたっぷり含んだ雨が降ったりやんだりしている。
足元の湖の魚はすでに皆死んで浮かんでいる。
森の木々は赤く変色して枯れている。
事故を知らされていない人間だけが、この平穏な幸せがずっと続くと思い込んでいる。

ヒロインのナレーション「最悪の事態は音もなく起こる」という言葉通り、放射能には味もにおいもなく、音もせず、世界を着々と壊していくのだ。

映画では事故から10年経ったあとの登場人物たちも描くが、登場人物一人一人の“その後”は、犠牲者のひとつひとつの“例”を代表している。
プリピャチから離れ、新しい街で暮らし始めても同級生から「チェルノ野郎!」と差別の対象になっている少年。
事故の深刻さを知りながらそれを住民に言うことが許されない立場で、良心の呵責から、精神に異常を来す技師。
退去命令を無視して森に住み続け、森で採れたリンゴを食べて「なんともないよ」と話す森林警備員。
ヒロインはかつての美貌を保ちながらも、いかにも体調が悪そうであり、髪の毛も徐々に抜け落ちていっている。

とにかく見るのがつらい。
私は、映画はどこかに笑いや救済の要素がある作品が好きなのだが、『故郷よ』はそれが一切ない。
甘っちょろい夢など入り込む余地が、原発事故にはほんの少しも与えられないのだ。
事故に遭った人間が苦しみながら死んでいくような悲惨なシーンは、一度も出てこない。
ヒロインとの結婚式の最中に「(原発の)火災を食い止めるため」と呼び出されてそのまま帰らなかった消防士の新郎のその後さえ、病院で「とても会える状態ではありません。1600レントゲンも(放射線を)浴びたんですよ」と看護婦の口から語られるにとどまる。
目に見える被害を被るのはもっぱら動植物だけである。
一夜にして森のブナの葉は変色し、植えたばかりのリンゴの木は枯れ、魚は浮かび、小鳥は落ちている。
そして、犬や豚や牛などは住民の強制退去の際にすべて殺される。
だが、無抵抗のまま、死の理由も知らずに血みどろで死ぬ動物たちの姿は、プリピャチの住民の姿そのものなのだ。

最後まで見ても、湧き上がる気持ちは、怒りと絶望しか、ない。
だから、見て「おもしろい!」という作品ではない。
しかし社会的意義はきわめて大きい。
ナターシャ・グジーが音楽の力で人の心を動かしたように、映像でしか表せない力というものがある。
涙が出るような美しい自然、人々の平凡な営み、不気味な原発の姿、無邪気に雨を喜ぶ子供たち、広場のむなしいレーニン像、街のシンボルとなる観覧車、10年放置されてぼろぼろになったウェディングドレス——原発事故を考えるとき、ドキュメンタリー映画とは別のアプローチで、忘れられない鮮明なイメージを焼き付けている。

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三谷眞紀

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三谷眞紀

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