彼らは、コーヒーを煎れるのである。普通の喫茶店と同じように。朝早くから豆を焙煎し、コーヒーを淹れる準備をして、カウンターに立つ。L CAMPのこともあれば、竜宮美術旅館だったこともある。出前先やアートフェアだったりもする。彼らはおいしいコーヒーを淹れるのである。
それのどこがアートなのか。彼らは普通の喫茶店と「ちょっと違う」と言う。そもそも彼らは建築を学んでいた。空間を作ること、人がいる場所に興味を持った彼らは、どこかの建築事務所に属して建築家になるのではない選択肢を選んだ。彼らは「コーヒーのある風景」を作りたいと思った。コーヒーがあって、椅子やカウンターが、屋根があったりなかったりする中で、温かい飲み物を中心に人が、それぞればらばらに集る。人々が集う。昔で言うなら、井戸端会議の風景だろう。あるいは、公園にきた紙芝居屋さんのようなものかもしれない。もしくは、昔の下町の誰かの家の居間かもしれない。何か食べ、場所を共有し、リラックスしてすごす。食べ物を間に挟んだコミュニケーションは、回数を重ねるごとに、薄い和紙を重ねるように、少しずつ重なりを作っていく。
彼らが興味を持つのは、お金儲けではない。金銭的に利益を出すことに興味があるのではなく、コーヒーのある風景を作り出すことに興味があるのだ。中嶋は言う。「儲けようとおもったら、今目の前に出してあるコーヒーがいくらか考えてしまう。そうなったら、早く回転して欲しいとしか思わなくなる。そこで起きるかも知れない出来事を楽しめなくなる。それではやっている意味がない。」彼らが興味を持つのは、あくまで、コーヒーとその周りで起こる出来事なのだ。彼らは、手を足を動かしながら、それをみている。
-みている- この部分がおそらくアートなのだ。
いうなれば、彼らは「生きた建築」なのだ。彼らは場所を作り、空間を作り出す。人々が「いる」空間を自分たちの存在から作り出すのだ。媒介するのはコーヒーだったり、インスタレーションの仕掛けだったり、朝食だったりする。彼らが仕掛けた「状況」は、自然にそこに人を集わせ、緩やかな共有を生む。その状況の中で、人々はそれぞれ自分の居心地を探す。今日の、今の楽しさを探す。全く知らない人との会話。公園について調べられた記事の載った新聞。朝から食べるステーキの感触。コーヒーの匂い。彼らが提供する食事やコーヒーは決して法外な値段ではない。むしろ一般の飲食店よりも親しみやすい値段だ。つまり、彼らは必要以上のお金をもらおうとしていない。いろんなプロジェクトをやって、その全部で必要な分があればそれでいいと彼らは言う。
この考え方は、簡単そうで実行するのはとても難しい。必要以上のお金を儲けようとはしない。けれども、自分たちの生活も、また提供している空間も決して貧しいものにはしない。そこにある時間、余裕、雰囲気、それらが最も彼らが大事にするもので、それはささやかだが、幸せな豊かな時間といえるだろう。わたしは彼らが提供してくれた場所で、許された場所で、起きたたくさんの幸福な出来事を数え切れないくらい思い描くことができる。言うまでもなく、その幸せな一瞬を作り出すためには、彼らは毎日そこで場所を運営し続けたり、作り続けたりしなければならない、まさに身体ごとその空間を作るために生活しなければならない毎日を過ごしているはずだ。彼らは、身体ごとアーティストなのだ。
そんな彼らが、自らの生活そのものの真価に興味を示すのは、当たり前のことだっただろう。彼らは自分たちの生活をずっと中継し続けるプロジェクトに参加したこともある。LPACK「小さな家」 blanclass 2012.10.1-6。一日中彼らの生活が中継された。ここで、これまでみるものであり、みられるものだった、彼らは、一方的にみられる者となった。相互のインタラクションがないこの中継の中で、彼らは何を得たのだろう。
http://blanclass.com/japanese/archives/201210-1-6
彼らがコーヒーを淹れ続けること。コーヒーのある風景を作り続けることの中には、その空間とコーヒーを共有することで、薄い和紙を重ね合わせるような出来事が含まれている。一瞬、時間を共有し、空間を共有し、そして離れる。薄い和紙が一枚、それぞれそこにいる人々の間にしかれる。また違う日、違う人と違う組み合わせで和紙がしかれる。その和紙が折り重なって、ちょうどいい具合になったとき、そこには出来事が起きる。たくさんの幸せな出来事が起きる。厚すぎて身動きが取れなくなってもいけない。けれども、薄すぎて見えないのも困るのだ。二人がおいしいコーヒーを淹れながら見ているのは、その薄い和紙がしかれる様なのではないか。その和紙が重なり合う様をそっと見守り続けているのではないだろうか。
その和紙が重なる様を関係性と呼ぶこともできる。彼らの作品は、深く内省したり、論理を構築したりするものとは少し異なる。彼らが最も大切にしているのは、身体であり、生活だ。そして、食べ物だ。食べ物を通して彼らは、他者の中に深く入り込む。コーヒーを飲むという何気ない行為の中に、小さな和紙をしくことをさりげなくやっている。しかし、彼らは、彼らのために和紙をしいているのではない。彼らが和紙をしくのは、その人自身のためだったり、そのコミュニティーのためだったり、単に彼らを含めたその場に居る人たちのためだったりする。
その和紙はいつ成果を発揮するかもわからない。どんな成果なのかもわからない。ただし、それは普通コピー用紙ではなく、薄い上質の和紙なのだ。そして彼らの関心事は、おいしいコーヒーを出すこと以上に、その和紙がしかれた上で何が起きるのか?ということなのだと思う。彼らは、何事かが起きることを少しだけ期待して、そこに居る。それ故に、普通の喫茶店とは「少し違う」のだろう。そうやって、他者の体内から社会に手を伸ばす彼らの行為は、例えば、リレーショナル・アートと言い換えることもできる。しかし、何より彼らが最も大事にしていることは、分類ではなく、そこで起きる出来事であり、そこに作られる雰囲気と空間である。その意味で、彼らがアートの文脈に乗るかどうかは、実は彼らの最大の関心事ではないのだ。そういうストイックさと率直さを持って、彼らは作品を作る。そんなアーティストが日本に居ることを、生活を続けながら、人々の間に和紙をしき続けることを、わたしは大変楽しく思っている。
彼らの次の展覧会の舞台はせんだいメディアテークである。ここで、彼らは改めて他の形で人々の間に、人と作品の間に和紙をしこうとしている。はたしてそれは成功するだろうか。7日間かぎりの展覧会の中で、彼らが行う試みを改めて興味深くみていきたい。
見過ごしてきたもの展
2013年2月25日~3月4日(28日木曜日休館)せんだいメディアテーク 6F
参加アーティスト:臼井良平、加藤泉、坂口恭平、毛利悠子、L PACK
http://www.smt.jp/callresponse/exhibition/
LPACK BLOG
http://lpack.exblog.jp/