2013-02-20

恋とは分裂症と偏執症と不安神経症などを発症する美しい病/『世界にひとつのプレイブック』クロスレビュー このエントリーを含むはてなブックマーク 

恋は分裂症と偏執症と不安神経症などを発症する病気だ。
この際、病理学の定義などは無視する。
医者がどう判断しようが、草津の湯だろうが、恋が不治の病いだということは昔から知られている。
平常ではいられなくなるが故に「恋」なので、健康的な恋など存在しない。
ベティーブルーやポンヌフの恋人たちを思い返すまでもない。
そしてときに恋は誰かを傷つけたり自分を傷つけたりすることもある。

誰かを傷つけたり自分が傷つくのを怖れながら、それでもソロソロと手探りで恋の病は進行する。
初めて踊るぎこちない社交ダンスのように。
恋という得体の知れないものが、ダンスという具体的な身体の動きに昇華されていく。
そのプロセスをスリリングに追体験する。

ハロウィンのディナーはシリアルと紅茶だけ。
始めての二人きりのディナーは「デートに見えないように」と「恋」は注意深く避けられる。
その裏側で「本当の恋」の進行は密かに始まっているのを彼らは知らない。
見る側にとっても、この「デート」が泣きたくなるほどお互いを思いやるラブストーリーの始まりだとはこの時点では気がつかないかもしれない。ネタバレっぽいが。

恋だとは気がつかないで進行する恋は「愛」に限りなく近づいていく。

精神病院から退院してきた躁状態の主人公のおしゃべりや、ちょっとした奇行はウッディ・アレンでおなじみの周囲との精神密度のズレによるおかしさで、5分に1回はクスクス笑えるという意味ではコメディ映画。
デートにおすすめするし、デート相手がどこで笑うかな?という楽しみ方もあると思う。

リアリティが臭みのないユーモアになっている。
恋も生活も喜劇ではないし悲劇にばかり生きている人も少ないだろう。
この映画を見るときも、まず自分が見ている映画が喜劇なのか悲劇なのかという選別をしないで、みんなが喜劇と悲劇の一歩手前で踏ん張っているというリアル、生きるという退屈なリアルを一瞬横切る、何か輝くものが見える映画だと思う。
近所をジョギングしているときとかに。

ロバート・デ・ニーロが好きな人へ。
父親役のロバート・デ・ニーロはギャンブルに夢中で、わけのわからない自信やジンクスを信じてるけどエキセントリックではない。どちらかと言えばかわいい。
デ・ニーロは必要以上に立派でもなく、情けなくもない、でもリアルな愛すべき父親になっている。

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minoru

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