2013-03-14

『セデック・バレ』クロスレビュー:歴史というより叙事詩か このエントリーを含むはてなブックマーク 

どんな理由からであれ、台湾に興味を持つようになれば、遅かれ早かれ、この島を日本が統治していた時代のことを知るようになる。そして50年に及ぶ日本統治時代の中で最大の悲劇と言われる霧社事件についても目にすることになるだろう。しかし、研究者でもなく中国語の知識もなければ、原住民の蜂起と日本人の虐殺、日本軍による徹底的な鎮圧という事件の簡単なあらまし以上のことを一般人が知るのは比較的困難だ。そして霧社事件の4文字は陰惨で不可解な歴史の一エピソードとして記憶の片隅にとどまり続けることになる。

『セデック・バレ』は4時間半超の圧倒的な映像と音とによって、そのようなもやもやとした引っかかりを完全に押し流してくれた。もちろんドキュメンタリーではないので、史実(とされていること)からの改変・省略・付加もあるだろう。しかしながら本作は、文献資料の行間からは読み取ることが難しいセデック族の驚異的な世界観を、観客の眼前に提示するだけではなく、それにどっぷりと浸からせてくれるのだ。これは歴史映画というよりはむしろ民族の叙事詩とでもいうものに近いのではないだろうか。叙事詩として観客をその世界観で包み込んでしまうためには、4時間36分というランタイムは必要なものだったと思うし、実際に一気見して退屈したりダレたりということは全くなかった。深山幽谷を疾走する原住民の躍動する肉体の美と蜂起に向かう不穏な高まりが突き上げるような第一部『太陽旗』がより感動的だったが、第一部を見終えたからといってそこでリタイアする気にはなれないだろう。暴力描写について多くの批判が寄せられたとのことだったが、殺陣は見事で、目をそむけたくなるようなむごたらしいシーンは特になく、鑑賞後は清々しかった。ハリウッドや香港のアクション映画を見慣れている人には全く問題ないものと思う。

予想外の嬉しい驚きは本作の言語についてのものだった。商業劇場で一般公開される映画作品である以上は、原住民の台詞が台湾語(河洛語)になってしまうのも止むを得ないかとも思っていたが、実際には全編を通じて話されるのはセデック語と日本語がほとんどで、北京語も河洛語もほとんど耳に入らないというものだった。そして、本作における日本語の様々なニュアンスは特筆すべきもので、単なる「敵方」が口にする憎々しい台詞を超えたものだった。これを翻訳を介さずに味わうことができる日本人は、実は世界中の観客の中でも(セデック語話者を別にすれば)最も恵まれた立場なのではないか(唯一残念だったのは日本人キャストに日本語の台詞回しの上手い役者が見当たらなかったことだった)。国際的なスタッフを集結させて極小話者数のセデック語で大長編映画を制作したウェイ・ダーション監督とプロデューサーの勇気には敬意を表したい。

キーワード:

セデック・バレ / 台湾映画


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