2013-05-21

GPSを爆音で追い越せ!『タリウム少女の毒殺日記』クロスレビュー このエントリーを含むはてなブックマーク 

少女は「物語なんかないよ」とカメラに向かって宣言する(寺山修司やアンディー・ウォーホルのように)

「物語」の反語は「観察」だということでとりあえず少女は観察者になろうとした。
観察は近代科学の基本で、それは再現性を実験により確かめる方法だから必然的に少女は「実験」する。
そこに「物語」「観察」「科学」の関係に微妙なズレが少しづつあらわれてくる。

…といったところまでが少女がアタマで考えた「物語」だ。
ではこの映画の「物語」はどこから始まっているのか。

実は「観察」を記録することは科学だけが行った方法じゃない。
20世紀の始めに自然主義文学や自然主義絵画なども「観察」こそがイケてると思った。
それは一種の流行だった。

世界の観察者になろうとする少女を観察するカメラも観察しようとする少女を撮るカメラ。
エッシャーの無限階段のように、あるいは合わせ鏡のように「物語」は果てしない。
その「物語」から少女は逃げることが出来るのか?!
物語から逃げるか、物語に取り込まれるかというサスペンス。
全ての映画はサスペンスじゃないか!
次の展開がわからないからこそ映画なんてなんとか見ていられる。
「問題」から生まれた「物語」のつまらなさならTVや雑誌でよく知っている。
朝まで生で「問題」について物語を語るテレビがどんなに退廃的かを知っている。
ならば「物語なんかないよ」と宣言しながら「観察」する少女を観察することに徹してみればどうか。
そんな思惑は悲しいことに「映画」という単純な表現の中ではカバーしきれない。
この映画が宣伝サイトに少女のブログや動画を用意するのは「映画」ではとてもカバーできない問題を扱ってしまっているからだ。
だからこれは映画、劇映画ではないのかも知れない。
あえてカテゴライズすると、メタフィクションの皮を被ったメタドキュメント。

この映画は映画を撮っているカメラの存在が常に意識されるという点ではメタフィクションだけど、
たとえば金魚が死ぬまでの様子を延々とノーカットで撮るような「メタ」では言い逃れのできない「ナマ」の視線が混入する。
そんなときメタな位置にあったはずのカメラの存在が消えたりする。
この映画ではカメラという視線が出たり消えたりする明滅がおかしなリズムを作っている。
それはかなり意図的に思えるし、この映画の特色だと思う。

「世界はプログラムで出来ている」という少女の認識は「神はいない」という哲学的命題とは少し違う感触がある。
むかし「神はいない」「神は死んだ」と宣言された時代には存在しなかったモノがこの映画ではめまぐるしく出現する。
インターネット、監視カメラ、GPS、美容整形…。

肉体という檻から抜け出すことが「自由」であるという思想が前世紀までの思想的宗教的な常識なら、
プログラムという檻から抜け出す「自由」をひとが求め始めたとき、いったい何が起こるのか。
それはたぶん誰にもわからないだろうし「わかる」という極めて曖昧で説明のつかない感情までがわからなくなってきているのかもしれない。

爆音で走り抜けるラスト。
プログラムから逃げるためなのか、物語から逃げるためなのか。
少し「物語」を急ぎすぎた気もするけど、それはたぶん「映画」にかろうじて足を残そうとする監督の倫理かもしれない。

映画祭等でバッシングを受けたというけど、かなり倫理感の強い映画。
あと細かいことだけどタイトルはインパクトを狙ったのはよくわかるけど「毒殺日記」じゃなく「観察日記」じゃないのかな。

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minoru

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