映画の冒頭のシーンでは散りゆく枯れ葉に雨が降りしきる。その後も作中の折々に、アイルランド、ダブリンの美しい風景が差し挟まれる。早朝や夕暮れの海の彩り、空の輝き、緑の田園景色、揺らめく夜景の灯り。
その風景の中でそれぞれの悲しみを抱えた三人の登場人物達が出会いすれ違う。職を失ったり、親の愛を見失ったり、大切な家族を亡くすなど、内側に喪失感を抱えながら自己の存在を模索している。
そんな彼らの日々はただ侘しく過ぎているかといえば、それぞれ自分なりの細やかなクリエイションを起こしている。失業し車で路上生活を送るフレッドは、時計を修理しては針が再び動き出すのを確かめ、毎朝汲む水で植物に水をやり、丁寧に日常を織り上げている。家族を亡くしたジュールスは、教会で聖歌隊のピアノを奏で、時々エアロビクスにも通っている。
一方、彼らと比べ、フレッドと同じ路上生活者の若いカハムは、マリファナに溺れて売人にも追われ、一見、破壊的に過ごしているようにみえる…けれども、そんな彼こそ、彼ならではのやり方で、住処である駐車場の隣人フレッドの心に喜びを呼び起こさせていく。そして、後半、カハムを探すフレッドの姿やカハムを思う父親の眼差しの中に、人は今そこにいないという“不在”でさえ、他者の心に様々な思いを呼び起こさせていくのをみることができる。“不在”もひとつのクリエイションなのだ。
目に見えて成し遂げる生産性や、誰かに認められ評価され愛されることよりも、もっと根源的に、人はひとたびこの世に生れ落ち、ただシンプルにそこに存在するだけでクリエイションを起こしてしまう。外に広がる世界と繋がる自らの世界を創出している。究極的には、人は存在するだけで既にクリエイティブな存在なのだ。
カハムはフレッドやジュールスを応援するように、自分自身を応援することが出来ない。フレッドの願った心地よい自分の部屋、ジュールスの内から湧き出る楽曲、彼らが自分を確認出来るものにたどり付けるように、枯れ葉が枝から離れる瞬間を美しいと言い、家族との花火の思い出を愛したカハムは、ある種の刹那的な美の瞬間にたどり着いたと言えるのかもしれない。
それでも最後に、人はただ他の誰でもなく自分自身を信じられたなら、もうそれだけでいいのかもしれない。そう思わせられたダブリンの物語だった。