2014-11-29

美大批判とデザイン批判 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 自分にとって、美大のデザイン科が胡散くさかったのは、デザインという行為が、現在の日本において、その根本的な存在意義を持ち得ず(例えば、それはかつてヨーロッパやロシアにおいて社会設計の手段という側面を強く持っていたはず)、商品等の内容物のその良し悪しの真偽にかかわらず、むしろ実際の価値を不問にしつつ、常に内容を超えるものとして、いわば虚構の情報を消費者に与える為の方便であり、しかしながらその事実については目をつぶり、受け手に対する理解のし易さや明快さが作り手が持ち得る最良の優しさなのだと美しい言葉で煙に巻き、その実、それがやはり結局は単に消費を煽る手段として資本主義的な能率こそをその情報伝達の主眼としている、ということに矛盾を感じたことに由来する。
 
 別に現在の経済のあり方を批判したい訳じゃ全然ないのだけれど、経済原理との関わりの中でデザイナーという職業を美しい言葉でごまかしている態度が嫌いなのだ。加えて、美大の教授陣はバウハウスがどうとか、デザイン論を望郷の憧れとして論じるのみで、その歴史的・社会的意義やその役割をこの国の特質にいかに応用していくべきかなどについて、学生に深く理解させようとはしない。だからなんとなくかっこいい、なんとなくきれいな浅はかなものばかりが溢れる。
 
 とはいえ、過去の他国の社会設計を目的としたデザインにおいても、一見対照的とも見える現代のこの国の思想なきデザインにおいても、共通してあるのは、巧妙ではあるが明け透けな情報操作として権力(政治的にも経済的にも)が利用する意匠のひとつであるような、そもそもが優しさなどとは無縁な、卑しく暴力的な魂胆だ。その暴力をまず自覚しろと言いたい。
 そもそも、上に書いた意味ではデザインという分野自体が、その黎明から既に暴力性を孕んでいたとも言えるだろう。
 ところで、大手広告代理店なんかの人々は、そんな暴力性の是非にどれだけ自覚的なのか。彼らがつくり、また関わる商品やイベント等のマーケティング(これ自体が暴力的だ)では、そのエリート意識からマーケティング理論だけでなく、アカデミックな現代思想的なものの言説を都合のいい解釈でとり込んだりもしているみたいだが、正直に僕自身の嫌悪感を述べるなら、それは教養にかける小金持ちが身分不相応の高級ブランドをギラギラと身につけているかのようで、極めて恥知らずな行為に見える。もしかつてのニュー・アカデミズム的な気分をしつこく纏っているのだとしたらこちらが恥ずかしくなる。
 言い過ぎかもしれないがそれくらい美大教育から連なる事柄全てを僕は嫌悪している。そこに身を置く人々は、彼らの権威主義というか権力志向の実現をクリエイティブな分野でどうにかしようとしているはずなのだろうが、その結果が笑えない駄洒落のような広告だったりすると、その浅ましさと大衆に対する蔑みを感じて不快になる。まあデザイン関係に限らず、美術にも音楽にも同じ感じの人がいそうだけど。
 
僕が通っていたのは、以上の自分の考えに鑑みると強烈な皮肉だが「視覚伝達デザイン学科 (Visual Communication Design)」という。
 
(上に書いたことは主にグラフィックデザインに関わる事で、プロダクトデザインにはあまり当てはまらないかも)
 

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※画像は近作のコラージュシリーズから。近年の作品制作で用いている、6項目に整理されたコンセプチュアルな理論のロジカルさを自ら否定してみようという試み。
 
【お知らせ】
グループ展に参加しています。Gloria Heldmoundというオンラインのヴァーチャルギャラリーですが、スペイン人のアーティストでありキュレーターでもあるJaime Rodoriguezさんによるキュレーションで、きちんとギャラリースペースが複数ある構造になっていて、見応えがあります。スペイン語しか表示されないのですが是非ご覧ください。
来年には同キュレーターによるグループ展もスペインはアストゥリアスの実際のスペースで開催される予定で、僕も参加予定です。
http://www.gloriaheldmound.org

キーワード:

美術教育 / 広告代理店 / 美大 / 芸大


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菊地良博

ゲストブロガー

菊地良博

“宮城県在住 美術家/実験音楽家 ”


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