骰子の眼

stage

東京都 世田谷区

2009-08-11 20:15


(ほぼ)初日劇評 第5回:観るものを揺さぶり続ける舞台 劇団、本谷有希子『来来来来来』

「重層的内面を秘めたキャラクターの魅力は、他の劇団ではなかなかお目にかかれない」 土佐有明氏が大絶賛した、これぞ本谷の精髄!
(ほぼ)初日劇評 第5回:観るものを揺さぶり続ける舞台 劇団、本谷有希子『来来来来来』
劇団、本谷有希子『来来来来来』 撮影:引地信彦
劇団、本谷有希子 第14回公演『来来来来来』(ライライライライライ)
8月1日夜 本多劇場にて観覧

終演後しばらくは呆然/陶然としてしまって、一緒に観た友人たちにもなんと感想を伝えたらいいのか分からなかった。1時間50分、激しく揺さぶられ続けた感情を整理し、言葉に置き換え、脳内に定着させるにはどうしても時間がかかる。そういう舞台をひさしぶりに観た。というのは劇団、本谷有希子が現在行っている公演『来来来来来』(ライライライライライ)の話である。まあ、感情を整理する必要なんてないのだし呆然としたまま日常に戻ることだってアリなのだろうけど。

昨年のパルコ公演『幸せ最高ありがとうマジで!』で演劇界の芥川賞とされる岸田戯曲賞を4度目のノミネートで受賞し、悲願達成と相成った本谷有希子。『幸せ~』は筆者も観たが、確かに悪い作品ではなかった。けれど、あれで岸田賞を獲るのならば、この作品の為にもうひとつ、文芸界で言うところのノーベル文学賞にあたるような賞を設立してあげてもいい。本谷有希子賞でもいいから、というパフォーマティヴなものいいをあえてしたところで、限りなく所感に近い劇評を記すことを始めてみよう。とりあえず、本作は紛れもない傑作であり、全身の細胞を抉られるようなこの感覚は、鶴屋南北戯曲賞を受賞した『遭難、』以来だった、ということを前提とした上で。

その『遭難、』以降の三作品も小劇場界の一般的な水準からしてみれば佳作だったと思うが、まだいける、もっとやれるはずだ、という思いが筆者にはずっとあった。理由は単純で、小説ではあれほど活き活きと狂い、溌剌と錯乱し、勝手気まぐれに暴走しまくるキャラクターをありありと描くことができる本谷なのに、何故か、演劇では舞台上に現出させる役人物が「薄く」感じられてまったからだ。あれが薄いのか?という反応が書いたそばから聞こえてきそうだが、いや、小説の登場人物の濃さや病み方や凶暴性に較べたら、演劇ではキャラをエキセントリックに設定する際に、多少のブレや揺れやムラがあったと思う。

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劇団、本谷有希子『来来来来来』 撮影:引地信彦

ただそう考えるのに至ったのは事情があって、というのも、『幸せ~』やその前作の『偏路』戯曲(=台本)を、筆者は、パンフレットや雑誌の取材にあたって事前に読ませて頂いていたからでもある。それらの戯曲は文句なしに面白かった。特に『幸せ~』はまばたきもせずに一気呵成に夢中で読んだ。戯曲のみでの判断となる、つまり舞台上での出来不出来は文字通り俎上に乗せられない岸田賞を、これは間違いなく獲るだろう、獲らないはずがない、と思った。で、やはり獲った。当然だと思う。ひとつの物語として、あるいは文学作品としても、圧倒的にオモシロかったからだ。それは筆者が偏愛する彼女の小説『生きてるだけで、愛』とその後日談的な掌編にも匹敵する強度で迫ってきた。

が、不安はあった。つまり、これだけぶっとんだエキセントリックなキャラクターを、どうやって舞台上に立ち上げるのだろう? 役者に漫画の実写化ならぬ舞台化のようなことが果たしてできるのだろうか?と。で、まあそんな不安を抱きつつも以下のような文章をパンフレットに寄稿させて頂いた。戯曲を読んだ率直かつ正直な感想をベースにしたためたものであり、美辞麗句を意図的に並べたつもりはない。

漫画や映画の登場人物が巧く描けていることの比喩として、「キャラが勝手に動き出す」という言い方がある。真に個性的で魅力あるキャラクターは、時に創造主である作家の手を離れ、主体性をもって独り歩きし始める、というわけだ。

本谷有希子の舞台や小説が多くの人を惹き付けてやまないのは、彼女がこの「キャラを動かす」才能に圧倒的に長けているから、だと思う。キャラが動き出す、というと、溌剌とした若者が活き活きと躍動するシーンが思い浮かぶかもしれないが、本谷作品におけるキャラの動態はむしろ真逆。過剰なまでに自己中心的で自己愛の強い人間が、狂気や被害妄想にとりつかれた末、極端な奇行に走っては周囲を当惑させる。要するに、皆、かなりタチが悪い。その意味では、キャラが動き出す、というよりはキャラが暴走する、というほうが適切かもしれない。

キャラがドラマに優先し、人物造形が物語を規定するというのは、例えば漫画やライトノベルでも頻繁に用いられる手法だ。本谷は漫画家へのインタビュー集を発表したほどの漫画読みだし、小説版『乱暴と待機』はライトノベルを意識して書いたというから、元々キャラ先行型の作品に共感するタイプなのだろう。そう考えると、本谷作品に頻出する精神疾患を抱えた女性たちを、いわゆる「ヤンデレ」に括ることもできなくはない。

しかし、複数の人格が縦横に錯綜しているような彼女たちの内面は、ライトノベル的な類型に回収されるほど単純ではない。例えば、先述の『乱暴と待機』のヒロイン・奈々瀬は、「妹」「ドジっ子」「メガネっ娘」といったキャラ類型のお約束を見事に兼ね備えた、「超ラノベ」的キャラとしてあえて描かれているが、結末において、彼女はそれらの記号すべてを力技でひっぺがすような蛮行に出て、それまで築き上げてきた萌えキャラを瞬時に反故にしてしまう。それどころか、おそらくほとんどの読者が予測不可能だったであろう、おそるべき(と同時に、愛すべき)本性を露にし、隠されていた本心を唐突に吐露するのである。いや、より正確に言うなら、どれが彼女の本音で本心で本性だったのかは、何度読み返してみても、分かったようでよく分からない。

こうしたキャラ設定の重層性や曖昧さを残した幕引きは、『遭難、』や『偏路』といった舞台でも同様に見られたものだ。異様に濃いキャラの愛憎劇に感情を揺さぶられ続けた挙句、安易な納得を拒絶され、会場を去る観客たち。その時、彼ら/彼女らは、はじめて気付くはずだ。ああ、自分は本谷有希子に、そして本谷の書いたキャラたちに、まんまと翻弄されていたのだ、と。そう、この「翻弄される快楽」こそが、本谷作品を観る/読む最大の愉悦にして醍醐味なのである。

本谷自身「最強」で「ニュータイプ」と豪語する本公演の主人公・明里は、「実際に近くにいたら迷惑な奴ランキング」では間違いなくダントツ1位のモンスター・キャラである。どうぞ、彼女たちの奇行や蛮行を客席という絶対安全な場所から眺め、思う存分、翻弄されて頂きたい。

しかし、本稿を書いた後に観た舞台は正直、少し物足りなかった。その前の『ファイナルファンタジックスーパーノーフラット』も続く『偏路』も、志願して自薦で劇評を雑誌に書かせてもらったが、『幸せ~』はしなかった。つまらなかったというわけではないが、あれだけ魅力的な造形のキャラを戯曲にしておきながらも、なぜ舞台で再現できないのか?という不満が残ったからかもしれない。いや、正確に言うなら、再現はできていた。

ただ、筆者が観たかったのは、単なる再現ではなく、戯曲に書かれた役人物を役者が超越してしまう瞬間、つまりそれこそ、キャラが勝手に動き出す場面だったのだ。作家の脳内に浮上し、紙の上に書かれ、印刷されて脚本として役者に配られる段階で、物語や人物造形はまだ、本谷有希子という戯曲家の紡ぐ言葉によって規定された状態にある。あまりにも才気溢れる戯曲家であるがゆえに、台詞やト書きだけで完結した、むろんそれだけで鑑賞に耐えうるほどにブリリアントな作品が書けてしまう、ということは本谷有希子にとっては諸刃の剣なのかもしれない。緻密で精巧なキャラ造形を役者がいったん自らの身体に馴染ませた上で更にそれを超克する、というのはかなりの難題である。

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劇団、本谷有希子『来来来来来』 撮影:引地信彦

『幸せ~』について言えば、本谷自身が語ったように、永作博美演じる主人公の明里は確かに「過去最強」の「モンスター・キャラ」で「明るい人格破綻者」だった。最強キャラであるという自負も間違ってはいないし、永作の演技も決して悪くなかった。が、あえて注文をつけるなら、役者が台本に記された漫画のようなモンスター・キャラに必至で追いつこうとしている、という印象も受けた。追いつこうとして追い越せたなら問題はなかったのだが、追いつこうとしているということがはっきりと見えてしまった段階で、それは成功だったとは言えまい。そこで筆者は、戯曲家・本谷有希子は既に作風を確立していても、演出家・本谷有希子にはまだまだ未知の可能性、のびしろがある、と感じた。

そして、その筆者の、あるいは過度かもしれぬ期待に本谷は応えてくれた、いや、裏切ってくれたというほど、役人物を活き活きと舞台上に現出させてくれた。筆者はいちファンとして本谷有希子が露出し、インタビューに答えたほぼすべてのメディアには目を通しているつもりだが、今回の取材記事を読んでいて思ったのは、本谷有希子はいつもより自作/次作を語ることに慎重だった、ということ。戦略家を自称する彼女は、ひとことで読者の目を惹くようなキャッチーな言葉で自分の舞台について、これまでかなりなめらかに語っている。『偏路』は「家族をテーマ」にした「ホームドラマ」で「小説『グ、ア、ム』と対になって」いて、「悪意を書く才能があると言われる」から「あえて善意をテーマに据えた」といった具合に。ほぼすべてのインタビューで彼女は、(無論そこには構成する側の意図やクセも含まれるからだが)言葉の使い方や表現の仕方に違いはあれ、おおよそそうしたことを語っていた。長くなるので割愛するが、事情は『幸せ~』に関してもほぼ同様だった。

しかし今回、本谷はそうした分かりやすいキャッチフレーズを滅多に用いなかった。メディアがもっとも注目しただろう女優・りょうの役どころに関しても「耐える女」とは言ったが、細かくキャラ設定を規定し狭めてしまうような言葉は使わなかった。耐える女、というのは過去に持ち出した言葉に較べても含意の幅が圧倒的に広い。特定の語彙を公の場で頻繁に用いるということは、パフォーマンスという要素を括弧に入れて考えるなら、作家の脳内にその語彙によって表現しようという世界観なり人物像なりが明瞭にあることの証左とも言える。が、一方、舞台表現においては時にその明瞭さが含みや余白を抹殺し、役者が作家の意図の枠外に勝手気侭にはみ出すことを阻む危険性もある、ということをその時痛切に感じた。

終演後に本谷本人とも少し話をしたが、こうした構造に今回、本谷自身もある程度自覚的だったように思われる。例えば、脚本や演出によって役者の闊達な身体や自由な発想を思うままにコントロールすることが、もしできるとして、それはいいことなのか? それは戯曲家と演出家と役者の数だけ答えがあるだろうが、しかし、こと本谷有希子の昨今の芝居においては、言葉が創造的なひらめきを妨げ、役者が言葉の呪縛から自由になれないことは、プラスにはなっていなかったと思う。もちろん、新作を観た今だから言えることであり、ここに至るために過去作品での演出体験が必要だったこともわかる。

が、それでもやはり、脚本を飛び出して遊び出した役者たちの熱演に溜飲が下がる思いだったこと、それを本谷も欲していただろうことは特記しておきたい。どこまでが役者の力量で、どこからが演出の力なのか、といった境界は措定することもできないほど曖昧だろうが、現場はさぞかし大変だったに違いない、ということはなんとなく想像がつく。女性のみ6名、しかもテレビや映画、小劇場など、各々活躍のフィールドもバラバラな6名が集うことで、独特の切迫感や緊迫感、競争意識などが生まれたのかもしれない。それは観ている側にも伝わってきた。

物語の筋については細かく触れるのをあえて控えよう。なぜなら、そうすることは、本谷がかつて自作を言語で規定することのあやうさをここまで散々指摘してきた本稿の趣旨とは馴染まないだろうし、これから来場する方にはなるべくフラットに見てもらったほうが、作品の性質的にはずっと楽しめるだろうと思うからだ。

ともあれ、迂遠な言い回しで以下述べてきたような重層的内面を秘めたキャラクターの魅力は、他の劇団ではなかなかお目にかかれない類のものだと保証する。小説やメディアでその存在を知ってはいたが舞台はまだ、という方はまず本作を観て、演劇人・本谷有希子の精髄を味わって欲しい。

(文:土佐有明)


劇団、本谷有希子 第14回公演『来来来来来』(ライライライライライ)
2009年8月16日(日)まで(東京公演)

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作・演出:本谷有希子
出演:りょう 佐津川愛美 松永玲子 羽鳥名美子 吉本菜穂子 木野花
会場:本多劇場(東京都世田谷区北沢2-10-15)[地図を表示]
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東京公演が終了後、新潟公演、大阪公演、北九州公演があります。詳細は公式サイトをご覧ください。
http://www.motoyayukiko.com



土佐有明(とさ・ありあけ)PROFILE

1974年、ライター。音楽を中心に、演劇、ダンスについても執筆。最近は新聞の書評欄も。取材・構成を担当したポツドール初公式パンフレット、監修・選曲を手掛けたコンピレーションCD『トロピカリズモ・アルヘンティーノ』、『土佐有明WORKS 1999~2008』はhttp://d.hatena.ne.jp/ariaketosa/ で通販可能。仕事状況もこちらで。現在、単著の企画を具体化すべく奮闘中。雑誌での仕事の他、8月の劇団、本谷有希子のパンフにも関わってます。仕事のご用命はHPよりお願いします。
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【過去の劇評】
第1回 ポツドール『愛の渦』(2009.2.19)
第2回 柿喰う客『恋人としては無理』(2009.3.8)
第3回 庭劇団ペニノ『苛々する大人の絵本』(2009.4.12)
第4回 『アントン、猫、クリ』(『キレなかった14才・りたーんず』より)(2009.4.12)

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