骰子の眼

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2009-08-22 10:00


『マンガ漂流者(ドリフター)』第17回:マンガ家らしくないマンガ家・タナカカツキの仕事vol.2

「叙情派マンガ家、タナカカツキ」の名づけ親は内田春菊!?「叙情派」ともリンクする80年後半の「レトロ趣味」ブームとは?
『マンガ漂流者(ドリフター)』第17回:マンガ家らしくないマンガ家・タナカカツキの仕事vol.2
左)92年、鈴木扇二『まばたきブック』(銀音書房)、右)89年、タナカカツキ『逆光の頃』(講談社)

★vol.1はコチラから
http://www.webdice.jp/dice/detail/1835/

はじめから「叙情派」ではなかったタナカカツキのマンガ

タナカカツキが投稿した「週刊コミックモーニング」は、メジャー商業誌。そこでタナカカツキは、叙情的な『逆光の頃』だけでは弱いと考え、ある作戦に出た。タイプの違うちょっとエッチなラブコメディ作品も一緒に投稿したのだ。そのため、受賞の発表があった「週刊コミックモーニング」誌上では、「『逆光の頃』他、一編」と書かれている。もともとこっちの一編が評価されての受賞だったのだが、選考委員長であったちばてつやの「こっちのほうでやっていきたいんじゃないのか だったらこっちをやらせてあげなさい」という鶴の一声で『逆光の頃』でデビューが決まったのだという(新装版『逆光の頃』座談会より)。さらにちばは、「まず、この絵でゾクゾクした。ベタ・トーン・空白の使い方すべてに才能を感ずる。この作者独自の世界を作ってほしい」と絶賛し、作品を高く評価している。「叙情派マンガ家」タナカカツキの誕生の影にちばてつやあり!このことがなければ、現在のタナカカツキは生まれていなかったかもしれない。

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叙情派として再デビュー。88年『週刊コミックモーニング』No.21 5月5日号より。


ところで「叙情派」って何!?

一説によると内田春菊が「叙情派」と名づけたとされている。彼女の4コママンガ『ストレッサーズ』でタナカカツキは、「叙情派男・日本叙情派協会会長・JOJO」というキャラクターで登場している。

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左)初登場シーン。右)叙情派の特徴をパロディにした1コマ。MF文庫版『ストレッサーズ』より。

内田春菊による「叙情派」とは、寂しい影を落として歩き、女にもてまくり、いつのまにか寝てしまい、あこがれの人の前では口もきけないが、大勢でいるのは好きで、かと思うと突然ススキ野原に一人で風に吹かれていたりする極端から極端へ行く奴だと認定されている。画としては『逆光の頃』に出現するような「影絵のような人物」「大胆なトーン」「余白」「均一な線」などがあり、それらを内田は叙情派の特徴としてパロディにしている。これらを指し、鈴木翁二や林静一、つげ義春などいわゆる「ガロ」系作家との類似点を挙げることもできるだろう。

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「叙情派」的な作品の例。左)つげ義春「夏の思い出」(『夢の散歩者』収録)より。右)鈴木扇二「しっぽ」(『まばたきブック』収録)より。

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タナカカツキのマンガを「叙情派」と評することによって、似た特徴を持つ過去の作品を「叙情派」と系統づけることができた。少数のマニアックなファンの間だけで読まれている時には必要がなかったが、広く知られていく過程で特徴を一言で説明できるジャンル名があったほうが便利である。こうして一つのジャンルとして「叙情派」は可視化された。

どんなジャンルなのか分かってしまえばパロディにしやすい。タナカカツキは『逆光の頃』を発表後、『りん子』、『エントツにのぼる子』という叙情派三部作を描いていた同時期に描いていた『バカドリル』では、内田春菊のように「叙情派」的なるものをメタ視点でパロディやギャグにしている。

写真:つげ義春の『無能の人』をパロディ化した『無能のサンタくん』。サンタのプレゼントはフラワーロック。ロックと石(ロック)をかけているのだろうか。(天久聖一、タナカカツキ共著『バカドリルXL』収録)より。

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さて、こういった叙情的なマンガをパロディにしてしていたのは『バカドリル』だけではない。ほぼ同時期に小学館「ビッグコミックスピリッツ」にて、連載されていた相原コージと竹熊健太郎の「サルでも描けるマンガ教室」がある。

写真:完全にメタ視点でつげ義春をパロディ化。新装版『サルまん』上巻より。『サルまん』では「メジャー誌では『ガロ』系のマイナーな作風では売れない」と語っている。

「過去の名作をメタ的に楽しむ」というマンガの読まれ方は、当時すでに珍しいものではなかった。しかし、タナカカツキの叙情派三部作の中にはそういったメタ視点は一切ない。内田春菊がパロディにしたように叙情的なマンガを真面目に描いていたタナカカツキが居るのだ。実際、『逆光の頃』に連載時に欄外に書かれていた作者の一言コメントではまったくといっていいほど笑いを取りにいっていない。唯一、おかしみがあったのは、88年9月15日のNo.40に掲載された第4話「銀河系星電気」にて、「先日、鴨川の上流の滝壺で泳ぎまくって、まっ黒に日焼けしたタナカです。むけにむけた皮をスクリーントーンとして、最近、使用してま~~す。なんて、ウソですが……。」と書いているくらいである。だからこそ、メタ視点がなかった叙情派作品は『バカドリル』のように爆発的には「売れなかった」のだという(とはいえ『逆光の頃』は3万部刷っていたそうだ)。真っ向から叙情派といわれる作品に本気で取り組み、「うっとり」してしまう。

その一方でそんな「うっとり」してしまう自分を笑ってしまうという絶妙なバランス感覚!相反する価値観が矛盾することなく、作者の中で共生してしまっていること。これがタナカカツキがタナカカツキたりえる個性であり、80年代的なパロディやメタ視点を良しとする価値観ではなく、90年代的な価値観といえる。だからこそ、若い人に『バカドリル』の笑いが「新しいもの」として支持されていくことになる。


【はみだしコラム】
88年に流行した「叙情派」と「レトロ趣味」

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タナカカツキの「叙情派」と雰囲気を共有していた流行の作風に「レトロ趣味」がある。代表的な作品として、86年より集英社「りぼん」にて、連載がスタートしたさくらももこの『ちびまる子ちゃん』を挙げることができるだろう。その登場人物の名前は青林堂「ガロ」などで活躍していたマンガ家から付けられたことは有名な話(例:丸尾君→丸尾末広、花輪君→花輪和一、みぎわさん→みぎわパン)である。

写真:86年に集英社「りぼん」8月号より連載がスタートしたさくらももこ『ちびまる子ちゃん』。写真は87年に発売された1巻。

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このミッシングリング(というほどのこともない)は、80年代の流行であった「レトロ趣味」から、「ナゴムレコード」で繋げることもできる。ナゴムレコードとは、83年にケラ(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)が創設したインディーズレーベルである。ケラがリーダーだった「有頂天」をはじめ、大槻ケンヂ率いる「筋肉少女帯」、「人生」(後の電気グルーヴ)、TV番組「いかすバンド天国」でブレイクした「たま」などを輩出している。ナゴム所属の「空手バカボン」(ケラと大槻ケンヂのユニット)のジャケットを根本敬が描いたり、ナゴムから「東京タワーズ」としてレコードをリリースしていた加藤賢崇は「ガロ」でマンガ家として活躍しており、「ナゴム」と「ガロ」は何かと近しい存在であった。

写真:83年にナゴムレコードより発売された有頂天「土俵王子」ジャケット。イラストは泉昌之。ナゴムレコードはマンガ家のイラストをよくジャケットに使っていた。

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実際にはナゴム、ガロ系と一言で説明できるほど単純ではない。一くくりにするのは些か乱暴すぎる。しかし、「たま」や『ちびまる子ちゃん』のヒットから逆引きすれば、「ナゴム」や「ガロ」をジャンルとして捉えることができた。元の作品を知らずともこういった雰囲気を背負った作風の作品を「ナゴム系」や「ガロ系」と称されるようになる。さらに、メジャーになるにつれ「レトロ趣味」が強調され、害のない「不思議さ」のみを抽出されることになる。「ナゴム」や「ガロ」にあった危なさやネガティブさは脱臭されていく。「りぼん」では『ちびまる子ちゃん』をはじめ、岡田あーみん『お父さんは心配性』やおーなり由子の作品に何処か「ナゴム」や「ガロ」っぽさを感じることができるかもしれない。岡田あーみんを指して「害のない児童マンガ」というのは気が引けるところもあるが「りぼん」にギリギリ載っていたという事実で無理に納得しておきたい。

こういった流行りもあり、80年代後半には「ナゴム」や「ガロ」っぽさを感じさせるマンガに一定の人気があったのだ。『ちびまる子ちゃん』や「たま」に続けと思ったのかどうか分からないが、タナカカツキがデビューした青年誌にもその流れはあった。

写真:西尻幸嗣『みづあめこぞうララバイ』より。85年、小学館「ビッグコミックスピリッツ」12月20日号に掲載。昔、駄菓子屋で売られていた水あめが「みづあめこぞう」という人の姿になって自ら水あめを売るがなかなか売れない。「もを… 俺らの時代やないねんな…」と同じくロケット弾の化身、弾吉はビルから飛び降り自殺し、「パーン」と弾けてしまう。忘れ去られた存在として孤独に生きるかつての人気者たちの物悲しさを描いたお話だ。

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85年にタナカカツキが『ミート・アゲイン』で佳作を受賞した「昭和60年前期ビッグコミック賞」の一作、西尻幸嗣『みづあめこぞうララバイ』もまた、当時の流行を感じさせるものがある。「ビッグコミックスピリッツ」ではその後、88年に西原理恵子『ちくろ幼稚園』の連載がスタートしている。西原もまた、「叙情派」と呼ばれ『ゆんぼくん』『ぼくんち』という名作を生み出している。

写真:絵柄からわかるとおり初期の西原は「『ちびまる子ちゃん』の二番煎じ」をしたたかに狙っていた。西原理恵子『ちくろ幼稚園』より。

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タナカカツキと同じく「週刊コミックモーニング」の「'88前期コミックオープン」を佳作入賞した犬丸りんのデビュー作『ゆびきりげんまん』にもノスタルジックで叙情的であった。犬丸は現在もNHKで放映されている『おじゃる丸』の原作者としても有名だ。80年には既に原律子や高野文子ら「レトロ」を取り入れており、目新しいものではなかった。むしろ80年代後半の「レトロ」には「新鮮さ」ではなく、単に表現手段の一つとして定着していたように思う。それを裏付けるかのように88~89年頃には同じく「コミックモーニング」で山田芳裕の『大正野郎』、講談社「ヤングマガジン」では平井一郎の『眼力王』が連載も。また「ガロ」の出版元である青林堂からは『おもひでぽろぽろ』の単行本が発売されている。同作は91年にスタジオジブリ製作による劇場版アニメが上映されヒットしたことで知っている人も多いだろう。また、映画でも88年に『帝都大戦』が公開され大ヒットするなどマンガのみならず、バブルで浮かれる日本において「レトロ」さとはキッチュであったのだ。

写真:扉の煽りには「レトロでもない。ニューウェーブでもない。ただただおもしろいホームドラマ!!」とあった。88年「コミックモーニング特別編集 THE OPEN-B」より。

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この稿では当時の流行としてレトロを捉えているが、作者の子供時代を描いたことで図らずしもレトロとなった『ちびまる子ちゃん』とレトロ趣味を愛好していた「眼力王」や原律子の作品には大きな隔たりがある。ただし、どちらも「キッチュ」さとして受け入れられていたという点で今回、このように一くくりにしてしまったことをご理解いただきたい。

写真:85年に「ヤングマガジン」に掲載された大友克洋『上を向いて歩こう』。講談社はレトロ趣味な編集者が多かったのだろうか。いや、単にマンガが好きすぎるだけだと思う。



てなわけで、タナカカツキが描いた「叙情派」とは何なのか、そして、当時「叙情派」がどう受け入れられていたのかを時代背景とともに探ってみた。こうして、探ってみると昭和が終わる足音が聞こえた88年に過去を懐かしみ、また、その当時を知らない読者が新鮮さを新しさとして受け入れていったのが分かって面白い。その中でもタナカカツキの作品はそれらすべてを俯瞰し、研究し、スタイリッシュに仕上げていたように思う。マンガを「描いた」のではなく、マンガを「デザイン」していたのがタナカカツキであったというのは言いすぎだろうか。いや、間違ってはいないと思うのだが……。

さて、次回も引き続き「叙情派」3部作について言及しておきたい。「りん子」が連載していた「コミックGiga」の投稿者には「ガロ」出身者がいっぱいいた!?90年代大量に発生し、現在も揶揄的に使われる言葉「ガロ系」とは何だったのか?などなどいろいろ探っていきたい。

(文:吉田アミ)


【関連リンク】
タナカカツキ webDICEインタビュー(2008.12.5)


吉田アミPROFILE

音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にセルフプロデュースのよるソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、アルスエレクトロニカデジタル・ミュージック部門「astrotwin+cosmos」で2003年度、グランプリにあたるゴールデンニカを受賞。文筆家としても活躍し、カルチャー誌や文芸誌を中心に小説、レビューや論考を発表している。著書に自身の体験をつづったノンフィクション作品「サマースプリング」(太田出版)がある。2009年4月にアーストワイルより、中村としまると共作したCDアルバム「蕎麦と薔薇」をリリース。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売される予定。また、「このマンガを読め!」(フリースタイル)、「まんたんウェブ」(毎日新聞)、「ユリイカ」(青土社)、「野性時代」(角川書店)、「週刊ビジスタニュース」(ソフトバンク クリエイティブ)などにマンガ批評、コラムを発表するほか、ロクニシコージ「こぐまレンサ」(講談社BOX)の復刻に携わり、解説も担当している。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売された。8月24日より、佐々木敦の主宰する私塾「ブレインズ」にて、マンガをテーマに講師を務める。
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