骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2010-01-20 23:30


関西インディーズ界の裏番長がついに姿を現す!UPLINKニューディレクターズシリーズに西尾孔志監督登場

1/30に黒沢清氏を迎え『ナショナルアンセム』DVD発売記念イベントを開催。
関西インディーズ界の裏番長がついに姿を現す!UPLINKニューディレクターズシリーズに西尾孔志監督登場
黒沢清や中原昌也が激賞する気鋭が映画作家への転機を語ってくれた。

ゼロ年代が終わり、2010年代が始まった。将来の日本映画を背負って立つであろう若手監督のインディーズ作品をDVD化してきたアップリンク・ニューディレクターズ・シリーズもいよいよ7本目。新作がベルリン国際映画祭に出品されることが決まった石井裕也監督を皮切りに、前田弘二監督、岡太地監督と紹介してきたこのシリーズに、続いて登場するのは関西インディーズ映画シーンにこの人ありと言われる西尾孔志監督。「今後が期待できる数少ない人だと思う」と中原昌也が語る異才が作り上げたユニークなホラー映画『ナショナルアンセム』は、黒沢清に「いたるところに才気がみなぎっている」と絶賛された傑作。
CO2(シネアスト・オーガニゼーション・大阪エキシビション)のディレクターとしても知られる西尾監督だが、そもそもは第1回CO2で最優秀賞を受賞した生粋のインディーズ映画作家。そんな監督の、これまであまり語られることの無かった映画遍歴について伺った。


ヴェンダースに憧れた高校時代

── 西尾監督の作品には、性と生、または性と死に関するエピソードがよく出てくる気がしますが、これはやはり監督のこれまでの経験と関係があるのでしょうか?

僕、経歴が割と謎なんですけど、実はピンクの世界で助監督をやってたことがありまして。あとAVの助監督もやってたことがありまして。それが20歳の時なんですね。その前に、高校を卒業してから京都の時代劇の撮影所でスタッフとして参加していた時期があって、それから東京来てピンクの世界入って、当時はピンク系のVシネマがすごくあったので、それの助監督とか制作進行を約9ヶ月くらいやって。まあ、体も心も壊れてしまって辞めたんですけれども。あまりにも現場きつくて。それが21くらいのことなので、性に関するモラルは早くに壊れてしまったというか。セックスというものを割と日常的に、ある種特別な贅沢品とかではなくて、横に転がってるものとして見てしまっているのはありますね。

── 最初に映画を作ったのはいつですか?

ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』を当時見て、とりあえず天使が出てくる映画を撮ろうと思って。ロードムービーで天使が出てくる映画というのを高校の時作ったんです。クラスの出し物に一人暴走して企画書みたいの出して、脚本も書いて、“僕が脚本書いたんで、皆でこれを撮ろう”って周りを巻き込んで撮りました。みんなキョトンとしながらついてきてましたけど。出来たものに関してはクラスの皆は割と肯定的に見てくれて、それまで撮ってる時はオタクっぽい気持ち悪い人みたいな感じで女子生徒とかにも避けられてたんですけど、撮り終わったもの見たら皆“ああ、意外とこの人は話せる人なんじゃないか”的な感じの近づき方をされたっていうか。それが、高校のとき初めて撮った映画ですね。

── 出来上がった映画を見ての感想は?

まあ、高校生なんで、映画が出来たってだけでもう嬉しいし、しかもヴェンダースの映画が好きで、それを目指して作ってるわけですから、ヴェンダースに一歩近づいたみたいな。高校生ですからその辺バカですけど。できあがったものを皆で見て、そういうことに胸がジンとするっていうか。ストーリー的には全くでたらめだし、今冷静に見たらつまんないんじゃないかと思います。でも、多分、今も好きなものは当時から撮っていました。ヘリコプターが空を横切ってるだけのカットとか。全然話とは関係ないんだけどそういうのが入ってたりとか。あと、僕の映画浮浪者が出てきたりすること多いんですけど、浮浪者が気違いじみてるんだけど、何か真実っぽいことを言うっていうのは、その高校の時の作品にも出てきます」

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映画『ナショナルアンセム』より


撮影所での最初の仕事は録音部

── 映画の道へ進もうと思ったきっかけは、やはりその高校時代の体験ですか?

僕、進学校へ行ってたんですけど、うちあまりお金持ちじゃなかったんで親に国公立へ行けと言われて、国公立受けて落ちたんですね。私学の滑り止めも受けてなかったんで、浪人が決定したと。その時に、また来年受験をして大学へ行くって言うのがすごく嫌で。というのは僕、高校の時に、夏休みから受験終わる2月くらいまで映画断ちをしてですね。今でも覚えてますけど、受験が終わった日にその足でビデオ屋に行って、小津安二郎の映画借りて見たんですよね。で、“やっと映画見たー!”と思ったんですけど落ちちゃったんで、“また映画断ちをやらなきゃいけないのか”と。それはちょっと勘弁して欲しいなと。当時京都にですね、撮影所の中にスタッフを養成する職業訓練校みたいなのがあるというのを新聞かなんかで見て、大学じゃなくて、いっそ一足飛びにそこに入ってしまって撮影所に就職してしまった方が多分いいんじゃないかと思ってですね、それで一年間土方のアルバイトをしながら入学資金やら何やらを貯めて、京都に行くことになるんです。

── 実際に学校に入ってみて何を学びましたか?

結局その学校も、学校って呼べるのかっていう、そんなこと言ったら学校の人に失礼ですけど。撮影所の中で現場のプロの人の背中にへばりついて現場を見る。やる気があったらそのまま手伝ってしまえみたいな感じの、つまり向こうからしたら若いスタッフをギャラ払わずに、むしろ授業料分捕って現場に連れて来させてるっていう。すごい商売だなと、今思うと。僕はそこに入って録音と編集の先生について勉強してたんですけど、当時、効果音をやりたかったんですね。大映の、もうお亡くなりましたけど大御所の倉嶋暢さんと言う効果音の先生についてですね、ご自宅に遊びにいって飲んだりとか先生の話を聞いて先生の携わった映画を見て解説を聞いたりとかというようなことをして、効果音を将来やりたいって思ったんですね。
ところが当時撮影所の中では、効果音の人材は足りてると。将来効果やりたいんだったら、まずは録音部に来いということで。マイクマンと言う、マイク、もしくは人数多い時はコードをさばく仕事なんですけど、まあ、僕土方やってましたけど筋力が意外と無くてですね、マイク持つのが厳しくて厳しくて。しかも当時そこの上の人に、お前将来何やりたいんだって言われて、“いや、僕効果希望してますけど、最終的には監督やりたいんですよ”って言ったらですね、“お前、ここにいたら死ぬまで録音部だよ”ということを言われてですね。“えっ?俺の人生設計と全然違う”と。それはおかしいと思って、まあ、なんだかんだ言って全部入れたら2年半くらいはそこにいたんですけど。

僕はもっとわがままでいいだろう

── そして京都を飛び出した監督はどちらへ?

京都出て東京行って演出部に入ろうと思い立って、東京の『映画芸術』という雑誌にいきなり電話したんですよ。映画芸術の編集部に電話して、僕が20歳の時だと思いますけど、“東京で働きたいんですけど、○○監督と○○監督につきたいんですけどどうやったら就職できますかね”みたいなことを、すごい失礼にも映画芸術の編集部に聞いてですね。
で、当時の編集部の方が親切にも、“○○監督だったら知り合いなので、一度話聞いてみようか”って言って、話通してくださって、それでそのままピンクの世界に。ピンクと言っても今のピンク映画とは全然違います。ピンク系のVシネマを割と大量に撮ってたとこに行きまして、そこで廣木隆一さんとか西山洋一さんとかの現場に着くんです。“俺はここでいくんだ”っていう勢いはいいんですけど、行ってみたら体力はついていけないし、二十歳そこそこで経験も浅いんで、全然制作進行としても全然役に立たない。すぐ物を忘れるし。精神的にも肉体的にも追い込まれていって、東京を去ることになるんです。

── そうしていわば苦い想いを抱えて再び故郷の大阪に戻ったわけですが?

大阪帰ってきてから、僕の厄年がちょうどやってくるんですね。22で、数えで24。ほんとにとんでもなく色んなことがあってですね、東京から挫折して帰ってくるわ、つきあってた彼女にふられるわ、親父が突如失踪したりとかして、とんでもなく色んなものに巻き込まれまして。僕、その時、映画はもう趣味で、東京で挫折したんだからもう趣味でやっていって、普通の仕事しながら週末に自主映画作ってそれでいいんじゃないかというふうに妙にあきらめの気持ちでいたんですけど、そのあきらめの気持ちがふっとぶくらいですね、自分の周りに色んな事件が起こりまして。
そこで思ったのは、僕はもっとわがままでいいだろうと。就職とかそんなこと考えずに、やっぱ映画をもう一回やろうと思って。ビジュアルアーツってとこに夜間部がありましたので、映画の学校で夜間部があるのはそのビジュアルアーツだけだったので、働きながら、リハビリのつもりで映画のことを一からちゃんと勉強してみようかなって気になったんですね。謙虚な気持ちになって。で、学校の仲間と自主映画撮りだすのが、高校以来の自主映画ですね。そこから『ナショナルアンセム』までが、コンスタントに自主映画を撮っていくっていう流れで。

『ナショナルアンセム』は高橋洋さんの呪いを受けている

── そしてついに『ナショナルアンセム』が生まれるわけですが、この作品を作ろうと思ったきっかけは?

学校卒業して最初に、夜間部の同期だった宇野祥平っていう、今、前田弘二さんの映画とかに出てますけど、彼を主役で何か一本撮ろうと僕も思って。というのも宇野君が東京へ行って役者を目指すって言い出したので、宇野君が東京行くまでにと、急遽作品を書いて、宇野君と撮り始めたんですね。ところがこれは宇野君に悪いんですけど、当時、僕が煮詰まってしまって、結構何日か撮ったのに、それを僕が放り出してしまったんです。
で、宇野君は東京に行ってしまって、だけどそこは何かひっかかるものがあったので、もう一回ちゃんと撮ってみようかなって。というわけで撮り始めたのが現在のバージョンで、冒頭に宇野君のカットが残ってるのはその時の名残です。最初のタイトルは、『キッズ・アー・オールライト』ってタイトルだったんですけど。
それはザ・フーからとってるんです。世の中の固まってしまってる価値観に対して、子供達が反乱を起こすという作品だったんですね。
と言っても僕らすでに20代だったんですけど、自分達を子供と想定してですね。その反乱の中心に、宇野君扮する謎の男がいて、彼がある種の殺伐とした暴力的な感情を周りに波のように、横にいるだけでどんどん周りの人間が、そういう暴力的な気持ちになっていって、それぞれが事件を起こしていくというような感じの、伝染病のような感じですかね、そのイメージは今の『ナショナルアンセム』にも繋がっているんですけど。

── その原型がどう発展して、あのような突き抜けた世界観に至るのでしょうか?

それがあとに『ナショナルアンセム』というタイトルに変えた時には、都市全体っていうか、もっと引いた目で、『キッズ・アー・オールライト』の時の子供達も正しいのか正しくないのか分からないっていうか、完全に善悪とかそういうものではなくて、全てが起こってしまったものなのだから、そこに何も正しいとか正しくないとかの判断を下さずに、フラットに撮っていくっていう視点で作っていったものが『ナショナルアンセム』です。具体的なきっかけがありまして、脚本家の高橋洋さんが学生時代か卒業したあたりに撮った『夜は千の目を持つ』という自主映画がありまして。8ミリフィルムなんですけど、それをたまたまどっかの映画祭で見た時にすごいショックを受けまして。
話はなんだか分かんないんだけど、フィルムの質感と雰囲気と何かモゴモゴした音声だけでこんなにも禍々しいものを見ている気になるのかという、それがおそらく僕の中で『ナショナルアンセム』っていう作品を作る一番のきっかけになっていますね。ある種高橋さんの呪いを受けてしまった。それで作ったんですよね。今、インディーズ映画が割とブームのように大量に作られている中で、今はなくなってしまった何かみたいなものを、その当時の時代を生きた人は、どこかでもう一回“こんなのもあるんだぞ”みたいなことは、やっとかなきゃいけないんじゃないかと思います。

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映画『ナショナルアンセム』より

ちなみに現在は次回作の準備中。DVD『ナショナルアンセム』に収録されている撮りおろしの短編新作『NA2 美しい手を汚す』をさらに発展させたものになるという。

次撮る『ゴクラク鳥』というやつは、さらに混沌というか洗練からは離れていきたいですね。

(インタビュー・文:上原拓治)

映画『ナショナルアンセム』
2010年1月15日発売

3,990円(税込)
ULD-520
アップリンク

監督・撮影・編集:西尾孔志
音楽:小林祥夫
出演:小島祥子、和田純司、鼓 美佳、渡辺大介、中村哲也、三嶋幸恵、宇野祥平
2003年/日本/本編100分+特典/カラー/4:3ビスタ/日本語/ステレオ/片面一層

アップリンク・ニュー・ディレクターズ・シリーズ公式HP

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西尾孔志 プロフィール
74年、大阪生まれ。10代から時代劇やVシネマの現場に就き、20代に入ってからビジュアルアーツ専門学校大阪の夜間部にて再勉強。卒業後に撮った『ナショナルアンセム』が好評を得、第1回CO2助成監督として『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』を制作。同映画祭最優秀賞を受賞。その後制作した2本の短篇を含め、全てが海外での上映歴を持つ。現在、CO2運営ディレクターの傍ら、映画制作を行う。


ナショナルアンセム上映会&公開キカク会議:
次回作を黒沢監督と企んでみる

2010年1月30日(土)
渋谷アップリンクファクトリー
14:30開場/15:00映画開演

予約1,000円/当日1,300円(ともに1ドリンク付)
ゲスト:西尾孔志、黒沢清
上映作品:『ナショナルアンセム』

【予約方法】
このイベントへの参加予約をご希望の方は(1)お名前、(2)人数、(3)住所、(4)電話番号を明記の上、件名を「予約/ナショナルアンセム」として、factory@uplink.co.jpまでメールでお申し込み下さい。
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