骰子の眼

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2010-02-15 20:55


東知世子の南米旅行記「アルゼンチン片思い」Vol.5:街角エンパナーダと甘味クロワッサンの日々

ブエノスアイレスを代表する“美味しいものたち”、そしてある日本料理屋との出合い。
東知世子の南米旅行記「アルゼンチン片思い」Vol.5:街角エンパナーダと甘味クロワッサンの日々
ショーウィンドに並ぶケーキやパンの種類はとても豊富

ブエノスアイレスで新しい食を求めて

自慢とちゃうけど世界中何処へ行っても、私は「安い早い旨いもの」を探すのが上手い。とはいっても、日本で思い描いていたとおりにいかないご当地グルメも結構ある。中国の焼き餃子、カレー味やロシア風と称した具自体がソースなどで調理されたようなピロシキなどは日本オリジナルなわけで現地には存在しないようだ。まあ、ほんまに日本の食文化というのは外国から入ったものを貪欲に吸収し改良してしまうので、もともとよりも美味しくなっていることも多々あるようなのだ。(日本人味覚に合わせているということもあるけど)

といっても日本から外の世界に一歩踏み出すと、意外なところで自分が求めているようなB級グルメを発見することもあるねん。たとえば、ロシアなんかの場合、ソ連時代に繋がりのある周辺国のグルメが思いがけず大健闘していたもんだ。市場なんかへ行くと、ウズベキスタン人たちが長細い釜で焼いている不思議にモチモチした丸っこいパンだとか、アゼルバイジャン人の売っている謎の赤や緑のスパイシーソースだとか、またグルジア人らしき人たちが市場で売っていたハチャプリと呼ばれるチーズが断層の生地に挟まれた柔らかいパイなど数え切れない珍味があった。この攻勢にロシア人も負けじと「パシュテット」とかいう名前の謎のレバーペーストみたいなものや、巨大な豆腐のように見える生っぽいチーズの切り分けとかして頑張ってたわ。そういう初めて見る謎めいた食べものに出会うと、果敢にチャレンジしてしまう私である。

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エンパナーダは美味しそうな焼き色がポイント

そういうわけで、ブエノスアイレスでも新しい食を求めて熱心に歩き回っていた。やっぱり犬も歩けば棒にあたるとはいうもんで、自分の足でくまなく街を歩いてこそほんまに美味しいもんに出会うことができるねん。だから、その辺の曲がり角からちらっと見えた看板や標識でも見落としてる場合とちゃう。ちょっとでも気になったら突撃をかける。それにしても、今思い出してみてもアルゼンチンというところは、パン屋さんでも何でも全体的に食のレベルが高かった。よって既に一週間後には半径数百メートルの中にどういったお店があるか、大体把握するようになった。

エンパナーダと独特に甘いクロワッサン

やっぱり、スーパーよりも個人商店の方がそれぞれの店の個性があって断然楽しい。ただそういう店は家族経営的なところが多いので、店が開いている時間が限られてくる。ある手打ちパスタの店など、毎日近くを通っていたのになぜかいつも閉まっていた。やっとランチの時間帯になって開いていることを発見した。なんと、その手打ちパスタはランチボックスのような容器に入れて売っていて、パスタもソースも数種類から選べて、さらにおまけでパンが三個くらいついてくるという豪華さだった。デザートのプリンなんかも並んでガラスケースに入っているもんだから、ついつい余分に買ってしまうという誘惑もあったけど、やっぱり食後は甘いもんで締めるというのは万国共通?

そんな数多の食品群の中でも、“なくてはならない”毎日のお楽しみとなったのが、エンパナーダと独特に甘いクロワッサン。まあ、エンパナーダに関しては、アルゼンチン特有のものではなく、周辺の南米諸国で似たようなものがあるらしい。実はアルゼンチンに行く前、一度だけ神戸にあるチリ料理の店で食べたことがあった。このとき既に結構気に入ったものの、値段が高いわりにあまりに小さいので満足感が味わえず。なんか知らんけど外国の食も日本に来ると採算を取らなあかんと思って途端にケチになるのか、ピロシキでもエンパナーダでもなんだか大きさが縮んでしまうねん。それでかしらんけど期待したほど印象は残らなかった。

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これが噂の甘いクロワッサン(メディアルーナ)

食文化の宝庫、ブエノスアイレス

ところがどっこい、ブエノスアイレスという食文化の宝庫に来てからというもの、やっぱりエンパナーダの大きさもいろいろあるんや!という結論に達した。ほとんどが手作りなので、お店によって大きさはいろいろ。でも、どこで買っても比較的安い。しかもその多種多様な具によって、その魅力は倍増! 日本では具がミンチしかないのかと思っていた私だったが、鶏肉もあれば、ツナもあり、野菜もあれば、チーズハムもあるというオリジナリティーの高さに毎回感動であった! しかも大体のパン屋さんだとか、惣菜屋さん、スーパーなどでオリジナル商品として売っている。そして同じ味のものがほとんどなく、すべてどことなく形状も異なる。それがエンパナーダをなんぼ食べても飽きない理由のひとつであった。ただ、全体的に薄味。だから濃い目がなんでも好きな私は、エンパナーダについつい醤油をかけたくなってしまうねんわ。そこで持って帰ってきたらすぐに電子レンジにかけて、それに醤油をかけて味わうことにしていた。するとやはり元の味より一層美味しく感じてしまうねんなあ、これが。やっぱり、日本人たるもの醤油は世界の何処へ行ってもなくてはならない存在やわ。

こういう具合で、ブエノスアイレス到着後から速攻近くの店を開拓していく毎日であった。さらに大変運のいいことに、最初のアパートの二つ目の角のところに恐るべきレパートリーの広さを誇る小さな店があることを数日後に発見。その店は慎ましい外観でさり気なく御菓子屋を名乗りながら、なぜか昼間は惣菜屋となりサラダの量り売りまでする上に、ついでにエンパナーダまで売っているのだった。

ブエノスアイレスで一番私が“人の役に立った”出来事

さらにガラスケースの中に、常時巨大なデコレーションケーキがかなりの種類並んでいる。そのデコレーションの色形も不思議に古風でなんだかエキゾチック。その上、いろいろなクッキーやパン、何種類ものキッシュが売られており、これもまたビッグサイズ。だから一切れ買ってしまうと、それだけで昼ごはんになってしまうくらい。ある日、狭い台所でその特大キッシュに醤油をかけて台所でひとり美味しく頂戴していたところ、同じアパートに暮らしていたオランダ人とその仲間たちがやって来て、「うわ~美味しそう! それ何処で買ったん?」と尋ねてきた。そこで親切かつお節介というまさに生粋の関西人な私は、総勢6名ほどのオランダ人女子大生を引率してそのお店に案内する運びとなった。

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街にはアルゼンチン風の焼肉屋さんがたくさんあった

まあお店の中に陳列された、数え切れない美味しそうな御菓子を見たときの表情ときたら。もう食べる前から頬っぺたが落ちそうなほどの喜び方。彼女らの食生活を観察してたから分かるけど、ここしばらくスーパーの冷凍食品や缶詰しか食べてんかったから、あんなに感動したんやろなあ。そんな彼女らの感極まりない様子を横で見ているだけで、ついでに私までうれしくなってきた。

店の人もいきなり大勢の珍しい外人客を呼び込んできた私に対して、“福の神・仙台太郎”でも見るような暖かい目線になったし、なんだか一気に狭い店の中に幸福な空気が満ち溢れるのを感じた。おかしな話、ブエノスアイレスで一番私が「人の役に立った」のがこのときやったかもしれん。やっぱり、食べるもんって大事やねんな~とつくづく思った。なんか言葉で言ってもらうより、なによりもあんなうれしそうな表情を見てたら黙ってても分かる。当たり前のことかもしれんけど、美味しいものは人を幸せにするんやなあ。そういうことをきっかけにして、だいぶ年下のオランダ女子大生軍団ともすっかり仲良くなれて、めでたしめでたしであった。

エンパナーダと甘味クロワッサンの日々

それにしても、このエンパナーダという食品の存在だけでも、私がブエノスアイレスで幸せに暮らすために必要条件を十分に満たしていたのだが、さらに毎朝学校で提供される焼きたてのクロワッサンがこれまた、今思うと至福の味わいやってん。

どうやら、このクロワッサンの甘さは冷凍生地に初めからついているみたいやった。要するに、手間はかけずに冷凍生地をただオーブンに入れて焼いているだけ。にも関わらず、日本のクロワッサンとは明らかに別物の美味しさ。もちろん焼きたてというだけでも、一般に冷めて売られている状態より当然美味しい。しかしそこに慣れてくるともう一段“アルゼンチン的必殺技”が加えられ、まさに今私のいるこの日本では哀しいかな再現が不可能なレベルの“味の極み”へと飛躍する!

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ドゥルセデレッチェがたっぷりかかったケーキ。基本的に御菓子によく使う

その必殺技というのが、“ドゥルセ・デ・レッチェ”という日本人としては舌を噛みそうになる名前のついた要するに練乳のようなもんやねん。これがまた練乳なんかが逆立ちしても及ばないような味わい。見た目も独特。茶色くて粘りがあって、なんだか癖になる味。いつしか私も、この甘さとクロワッサンの甘さとのダブルパンチがない朝食なんて! という感覚になってしまっていた。

“ドゥルセ・デ・レッチェ”という練乳食品

知り合った日系人の話によると、やっぱり類似のものが日本で売られているのを見たことがないらしい。そのため、この練乳的食品のいろんな種類(キャラメルみたいなのとか、羊羹みたいなのとか、ペースト状のとか)を買いだめして帰るつもりらしかった。

当然私も大きめの一缶は買って帰った。しかし、しばらくして気がついたら母親に全部綺麗さっぱり食べ尽くされており、気付いたときは後の祭りであった。もっと買って帰れば良かったと泣きそうになったが、あれだけブエノスアイレスで毎日のように食べてきたわけやし、一応はもう大人やねんから我慢せなあかん。思い出してみれば、こんな食い気に走る生徒のために、ほぼ毎日学校のある日は出勤するやいなや、クロワッサンを焼いてコーヒーを淹れ、御菓子や果物まで提供してくれた美男カルロスに感謝せなあかん。本当にあの甘い甘い朝食のことを思い出すだけで、ほとんど今となっては夢の世界のようにも思えるけど。嗚呼、次にまたブエノスアイレスに行ったら、今度こそ絶対に絶対にドゥルセ・デ・レッチェとエンパナーダを買い占めたるねん!

ブエノスアイレスに定住する日系人

やっぱり故郷の有難さというのは、離れてみたら分かるもんらしい。という私の場合、特に居住地にこだわりはないので「ここじゃないと住めない」とかいう意味はまったくない。ただ一旦海外に出てしまうと、冗談抜きで危ない事態に巻き込まれないように毎日暮らすので精一杯という感覚になるときがあるねん。“水と安全はタダ”なんて国はそうそうないという現実を思い知ると、やっぱり日本は有難いな~とほんまに思う。

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中国人の経営する店がかなり多くて驚いた

アルゼンチンは移民国家なんて、これまでにもしつこいくらいに書いたかもしれん。でもやっぱりいろいろな人がいるということは、それだけ綺麗事だけで済まされない問題が起こってくるということやん。正直言って最初のうちは、現地語がいまいちなので「どのくらい危険か」という情報がないもんで、それほど怖いと思わずにいた。でも、日系人の人たちと知り合ってからは「この国がいかに大変か」ということを彼らの体験から教えられた。ただ日系人といってもアルゼンチンは沖縄からの人が多い。また昔は日本よりずっと繁栄していたこともあって、世界中放浪した末にブエノスアイレスで定住するようになった神戸出身の柔道家も間接的には知っている。

それまで、他の国に行ったときに日系人の存在をあまり感じたこともなかったし、まずそういう人に出会うことすらなかった。でも、今回本当にいろいろと彼らのお世話になった。というのも、ブエノスアイレスには良心的な値段で、“まともな和食”が食べられる店があって、そういうところは日系人の方が経営している。もちろん数は限られるけど、他の国ではなかなか巡り合わない「ちゃんとした日本の食事」を頂けるなんて思ってもみなかった。

偶然地図で見ていると、意外に自分の住んでいるところから歩いて行けそうな距離。早速行ってみることに。ただ、この場所というのがかなり入り組んでいて大通りではなく、裏通りといった趣なので最初は分かりにくかった。ただ、店に一歩踏み入れた瞬間の安心感というのはなんともいえないものがあった。清潔感、ちょうどいい具合に冷えた空調、そして穏やかな店の女主人の方の微笑み。完全にここは外からは完全に遮断された日本に近い空間だというのを感じた。

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週末のサンテルモ蚤の市には海外からの観光客が多い

誕生日にブエノスアイレスで“すき焼き”を食べる

特に夏だったからかもしれないが、知らない道を歩く危険と熱気に騒音、強烈な紫外線の強さ、ただ歩いてここまで来ることですら、フラフラしそうなくらいなんだか凄い冒険だった。でも来てしまうと「そこは日本だった」という感じ。昼間からビールを頼むと、グラスが冷やされて出てくるねんもん。なんか、この心遣いがすばらしいやん! 食事の前の温かくぬくめたおしぼりですら、海外で出会うと感動もんやし。料理もまた、当たり前に「カツ丼」や「天丼」があって味も当然のように日本と変わりなく美味しい。しかも、味噌汁と漬物がついてくる。こんな遠くまで来て、「カツ丼」ってなんやねん? と思うかもしれないが、料理ほど心に染み入るものってないで。

しみじみと味わってとことん通い詰めて、ついに自分の誕生日にはオランダ人二人とやってきて、“すき焼き”まで味わってしまった。ほんまに、ブエノスアイレスまで来て、日系人の方が頑張って“日本の味”を守っている姿にはまず頭が下がったし、彼らの姿には学ぶものが多くあった。その店で一度近くに座っていた日系一世の叔父さんは、よっぽど日本が懐かしかったのか随分と自分の息子自慢をしていたけど、やっぱり年取ってから治安の悪いブエノスアイレスで暮らすのは大変だというくだりでは、さすがに嘆き口調になっとったなあ。

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大変お世話になった日本料理「いちそう」の店内

意外と冷ややか? ヨーロッパからの視線

そんなこんなで、私もアルゼンチンに来てやっと日系人の有難さを痛感しましてん。その一方、ヨーロッパ系移民の子孫はどんな風に本国を見ているのだろうと時々思った。なぜか名前がロシア風やのに実はイタリア系のオルガさんの場合、イタリアに一度も行ったことはないけど、将来のことを考えて「イタリア国籍」を取得しよう奔走していた。彼女に言わせると、かなり戸籍関連の書類など準備が大変らしかった。そこまでしてもう一度イタリア国籍を取る人というのは多分そんなに多くないと思う。それでも、やっぱり祖先に対する思い入れから取るのか。はっきりその辺りは聞かなかったけど、きっと祖先の国への郷愁が強いんちゃうかなあ。彼女の場合、移住するつもりはまったくなさそうやったし。

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日中のフロリダ通りは旅行客やビジネスマンで人波が途絶えることがない

ただこれに対してヨーロッパ大陸からアルゼンチンに来る観光客などの態度は、ちょっと冷ややかにも思えた。あるとき偶然、歴史的建築物の見学ツアーに参加したら、私以外全員ヨーロッパ人だった。どうも皆とても裕福そうな人たちで、デンマーク人などは投資家で物件の下見かなにかで来たビジネスマンとその家族だった。この建物を案内してくれたアルゼンチン人の若者が参加者全員に国籍を聞いていたとき、「デンマークは自分の祖先の国だ」と誇らしく言ったとき、ちょっと奇妙な雰囲気になった。多分、言ったアルゼンチン人の方は「憧れ懐かしむ気持ち」を漂わせていたのに対して、それを聞いたデンマーク本国の人たちは「ふ~ん、それで? そういう苗字なんていっぱいいるから」という程度でまったく何の関心も示してもいない。それどころか、そんなところで共通の話を繋いでしまって変に親しくなっても大変やし… といわんばかり。

あのときほど、なんともいえず居心地の悪い空気が流れたこともなかった。金髪で色が白くて、瞳はブルー。見た目は綺麗けど、なんかこんな冷たいんか。個人主義とか聞こえはいいけど、なんかこの冷たさには正直ぞっとしてん。もちろん、他人がどういう反応しようとかまへんけど、遥か南米で頑張って暮らすデンマーク系のアルゼンチン人に対して、なんにも言うことないんか。どっちかというと「こんな南米くんだりまで移民で来たような輩、どこの馬の骨か分からん」という感じがとてもあった。やっぱり、ヨーロッパから見るとそういう面があるんかもしれん。でもいくらなんでも、あの会話の切り方にはびっくりしたわ。

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アルゼンチンの人たちはデモをするのが好きみたいやなあ

ブエノスアイレスにはさまざまな人種がいるから、明らかにコミュニティーに分かれて住んでいる場所もある。そういう意味では、移民から見ると本国を意識したお互いの結束は強いと思う。その一方で、必ずしも本国の人間が、アルゼンチンに移民で来た人に親しみを感じないというのはやはり、渡ってきた人たちの経済事情や社会的身分の違いからなんかなあ? いずれにせよ、私が日系人の人たちに感じた感情とのあまりの差に、移民という立場の人たちと本国の人たちの間に横たわる“厳しい現実”を見てしまった気がした。

(文:東知世子)

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■アルゼンチン片思い

これまでの連載はこちら
http://www.webdice.jp/dice/series/21/


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■東知世子 プロフィール

神戸生まれ。ロシア語の通訳・翻訳を最近の職にしているが、実はロシアでは演劇学の学士でテアトロベード(演劇批評家)と呼ばれている。学生時代に「チベット仏教」に関心を持ち、反抗期にはマヤコフスキーに革命的反骨精神を叩き込まれ、イタリア未来派のマリネッティの描いた機械の織り成す輝ける未来に憧れて、京都の仏教系大学に進学。大学在学中にレンフィルム祭で、蓮見重彦のロシア語通訳とロシア人映画監督が舞台から客席に喧嘩を売る姿に深い感銘を受ける。


その後、神戸南京町より海側の小さな事務所で、Vladivostok(「東を侵略せよ!」という露語の地名)から来るロシア人たちを迎えうっているうちに、あまりにも面白い人たちが多くて露語を始めすっかりツボにはまる。2年後モスクワへ留学。ここですっかり第2の故郷と慣れ親しんで、毎晩劇場に通いつめるうちに、ゴーゴリの「死せる魂」を上演していたフォメンコ工房と運命的な出会いを果たし、GITIS(ロシア国立演劇大学)の大学院入りを決める。帰国後、アップリンクでの募集を見てロシア語通訳に応募。憧れのセルゲイ・ボドロフ監督のアカデミー賞ノミネート映画『モンゴル』に参加し、さまざまな国籍の人々との交流を深める。その後バスク人の友人に会うためサンセバスチャンを訪問し、バスクと日本の強い関係を確信。いろいろと調べるうちに南米・ブエノスアイレスにたどり着き、なにがなんでも南米に行くことを決意。

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