骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2010-10-27 21:47


【『スプリング・フィーバー』川口敦子】ロウ・イエ監督は親密な人の心の時空の苛酷な深奥を切り裂いていく

映画評論家の川口敦子氏によるレビュー。11/6(土)より渋谷シネマライズほか全国順次公開
【『スプリング・フィーバー』川口敦子】ロウ・イエ監督は親密な人の心の時空の苛酷な深奥を切り裂いていく
映画『スプリング・フィーバー』より

ロウ・イエ監督は親密な人の心の時空の苛酷な深奥を切り裂いていく
川口敦子(映画評論家)

「この数日来、晩になると、大通りに人影がなくなってから散歩に出ることにした。ひとりで大通りを、深い藍色の空にかがやく星くずを仰ぎながらゆっくりと、とりとめもなくはてしもない空想にひたりながら歩く(中略)こうした春風の酔いよどんだ夜、いつも、私はあちらこちら盲めっぽうに歩きまわり、明けがたになって、やっと家に帰った」(「春風沈酔の夜」岡崎俊夫訳、平凡社)──1923年に書かれた郁達夫の掌編。そのタイトル、そして『スプリング・フィーバー』の原題にも掲げられた“春風沈酔的晩”を往く上海の文士の一景は、都市漫歩者の孤独、澄んだ寂しさの底にある陶然を活写して、モダニストの時代を甘やかに想起させる。同時にそれはそんな都市の時空への現在進行形の郷愁で結ばれたロウ・イエの映画、そこで孤高の魂を芯に毅然と在る人々のことをも思わせる。

実際、ロウの映画は幸せなカップルとなるよりは都市を、世界を、さすらい続けることを択る孤りを慈しんできた。『ふたりの人魚』で上海をさまよう一人称の眼差しと独白の主、彼がみつけた恋物語の主人公たち、はたまた彼らに影を投げ掛ける『めまい』でロマンスの亡霊に憑かれ“とりとめもなくはてしもない”思いを曳いてサンフランシスコの街を彷徨した男――いずれも群集の中の孤独を愉しむ心の持ち主だった。『天安門、恋人たち』のヒロインの場合には、北京を吹きぬけた束の間の自由の風の中で生涯の恋人と巡り会いながら、あえて孤りとなることでこそ官能の永遠を手にしようとする。肌を合わせ、肉を重ね、ひとつになる程、遠いふたりの寂しさに向けた眼差しは、男と女、男と男、人と人、性差を超えて存在そのものの孤独を敢然とみつめる『スプリング・フィーバー』でいっそう研ぎ澄まされている。

南京の街で交錯する男女5人、微妙に重なるふたつのラブ・トライアングル。そこから脱落する女教師と夫ワン・ピンは多分、孤りよりふたりであることをそれぞれに思う人だ。そうではない残りの3人のぎこちない旅へと映画は歩を進め、孤りと孤りの3人の時間がふと溶け合う瞬間をみつめていく。これまでも情動を手持ちキャメラの動きにスリリングに掬ってきたロウが今回、初めて採ったHDビデオ撮影、それが親密な人の心の時空の苛酷な深奥を切り裂いていく。

webdice_SF_REVIEW3
映画『スプリング・フィーバー』より

3人はひとりで泣く人たちだ。恋人の自殺を知ってドラァグクイーンの扮装のまま通路の隅でひとりジャン・チョンは泣きじゃくる。その姿に彼の恋人の死を招くスパイ行為を請け負ったルオ・ハイタオが引き寄せられる。自身に覚えがなくはない孤高の魂、その寂しさをそこに見たからだろう。チャチャのリズムで陽気に明けた朝、踊る恋人ルオの携帯にある写真を目にして、けれども問い質すより美容室のシャンプー台で孤りの時を噛みしめることをとる娘リー・ジン。旅の一夜、うっすらと気づいていた男ふたりの関係を窓辺のキスで確信した時も彼女は、ひとりカラオケの部屋で歌い泣く。無言で加わり手を差し延べるジャン。歌うルオ。3人の時空に響くのは孤独の同志の心の共鳴だ。やがてそれぞれがまたひとりとなり、旅の終わりにそれぞれがひとり泣く。個々の漂泊を続けるしかないことを壮絶に心得た人の思いに共振してキャメラが揺れる。思えばそのキャメラは開巻、密会のワンとジャンの愛の行為を見届けて窓外に這い出し雨に打たれる水槽のひとつとひとつの睡蓮の花を掬いとったのだった。

その花の孤独を刻む傷痕を刺青で飾って孤りのジャンが街を行く。陶然とキャメラが追う。新たな恋人といるベッドから彼の記憶は死んだ恋人が繰り返し読みきかせた郁の一節へと帰り着く。「無限の哀愁を」含んだ空を切り取る映画は郁の時代の孤りを思い、3人の孤独な足取りの先をも思わせる。そうして無論、そんな孤りへの思いは銀幕のこちら側、2010年日本の私たちの毎日にもやさしく懐かしく降り注ぐのだ。

【関連記事】
「シャワー室でのラブシーンではすごく大きな壁を越えなければならなかった」ふたりの主演男優が語る『スプリング・フィーバー』(2010.9.8)
「愛について描かざるを得なかった」 中国で映画製作を禁止されたロウ・イエ監督 舞台挨拶に登壇(2010.10.22)



映画『スプリング・フィーバー』
2010年11月6日(土)より、渋谷シネマライズほか、全国順次公開

【STORY】
夫ワン・ピンの浮気を疑う女性教師リン・シュエは、その調査を探偵に依頼し、相手がジャン・チョンという“青年”であることを突き止める。夫婦関係は破綻し、男ふたりの関係も冷え込んでしまう。その一方、探偵とジャンは惹かれあっていく。ジャンと探偵とその恋人リー・ジン。奇妙な三人の旅が始まった……。

第62回カンヌ国際映画祭脚本賞受賞
監督:ロウ・イエ
出演:チン・ハオ、チェン・スーチョン、タン・ジュオ、ウー・ウェイ、ジャン・ジャーチー、チャン・ソンウェン
脚本:メイ・フォン
プロデューサー:ナイ・アン、シルヴァン・ブリュシュテイン
撮影:ツアン・チアン
美術:ポン・シャオイン
編集:ロビン・ウェン、ツアン・チアン、フローレンス・ブレッソン
音楽:ペイマン・ヤズダニアン
製作:ドリーム・ファクトリー
ロゼム・フィルムズ
配給・宣伝:アップリンク
中=仏 / 115分 / 2009年 / カラー
公式サイト
公式twitter


レビュー(0)


コメント(0)