骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2010-12-09 21:00


「この絵を注文した人は朝鮮戦争で死んだんです」─『ANPO』出演の池田龍雄が語る特攻隊参加、アーティストを志す契機、そして安保闘争前夜の活動
映画『ANPO』より、池田龍雄『ポートレート』(1952年)

岡本太郎らとアヴァンギャルド芸術運動に参加し、活動初期から一貫して前衛的な表現に挑んできた画家・池田龍雄が映画『ANPO』の監督リンダ・ホーグランドとトークショーを行った。これは渋谷アップリンクほかでロードショーが行われている今作の公開を記念して、10月2日、渋谷アップリンク・ファクトリーにて行われたもの。60年安保の時代にあっても果敢な創作活動を続けていた池田氏の作品は、映画のなかでも重要なポイントに登場する。今回のトークショーでは、池田氏が特攻隊に加わったという生々しい戦争体験の、大学時代に芽生えたアートへの意欲など、興味深いエピソードが多数語られた。なおリンダ・ホーグランド監督は、12月21日には西川美和監督、そして23日にはジャーナリストの岩上安身氏を迎え、トークショーを開催する。

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渋谷アップリンク・ファクトリーで行われたトークショーより、左:池田龍雄、右:リンダ・ホーグランド監督

特攻に志願しなければいけない状況にあった

リンダ・ホーグランド(以下、リンダ):映画のインタビューでは池田さんがアーティストになったきっかけを随分聞かせてもらったんですが、編集の段階で映画には入れることができなかった、なぜアーティストになったかというお話を聞かせていただけますか?

池田龍雄(以下、池田):安保のお話をする前に、まず戦争体験の話をしなければならないと思います。中学3年生、15歳のときに航空隊に入りまして、それは志願という形をとってるんですけど、ほとんど強制的というか志願せざるを得ない状況でした。戦争が終わる頃は特攻隊になっていて、あわや敵艦に突っ込む直前くらいで戦争が終わったために生き残った。

リンダ:私が前にプロデュースした映画が『TOKKO-特攻-』(2007)だったこともあって、若い人にもしっかり、特攻隊になりたくてなったわけではないことのいきさつを池田さんにお話してもらいたいんです。

池田:支那事変というのは、現在は日中戦争と言われていますけれど、僕が小学校2年生のときに始まりました。その頃からずっと、「日本の戦争は正しい戦争だ」「東洋平和のためにやっているんだ」と教わってきて、ちょうど中学に入ったときに太平洋戦争でアメリカ・イギリスと戦うという状態になりました。それも結局は「東洋を欧米の手から解放してやる」という名目のうえでの正しい戦争だった。しかもお国のために、天皇陛下のために戦えという精神がたたき込まれているわけです。
昭和18年、戦争が始まって2年目、負け戦になってるんですけど、そういうことは一切言わなかった。僕の学校は佐世保に近いんですが、佐世保から週に一回くらい海軍将校がやってきまして、「祖国の将来は君たち青少年の肩にかかっておる」みたいなことを言って煽るわけです。

リンダ:怖いですよね、14歳の子供に国家の将来がかかっているっていうのは。

池田:忠君愛国と言われて、天皇陛下が国の親だと言われまして。そのために命を投げ出せと言われるんです。それはずっと良いことだと思い込んでいる。「悠久の大義に生きる」という言葉がありまして、戦死すれば靖国神社に祀られる。天皇陛下が拝みに来る、それは名誉なことだと。人間は名誉に弱いんですよ。ちょうど3年の1学期、授業が始まって間もなく、そのように海軍将校に煽られたあとで教室に帰ってきたら、担任の先生が─30歳代の数学の先生でした──「決意した者は立て」と言うんです。志願する者ということですよ。それ以前からどっちにしても志願しなくちゃならないだろうという思いはあったんですけど、いきなりそう言われても誰も立たない。
僕は1年生のときからずっと級長やらされていて、級長は教室のいちばん後ろに席がありまして。黙想をやるときに、級長が号令をかけるんです。みんな目をつぶって、精神統一として1分間静かになる。黙祷じゃないですよ、黙想です。みんなが目をつぶっているときにそう言われたんですが、みんな立たないんです。シーンとなるなか、僕は1番後ろにいて、困ったなと思ったんです。ほんの数秒ですけど気まずい、先生がイライラしてる感じが解るんです。それで責任というものを感じて、10秒くらい経ったあたりで、立ったんです。そしたらつられて何人かが立った。それで試験というかたちになった。3年生は3クラスあり、4年生、5年生それぞれ40人くらいが志願したみたいです。志願せざるをえない状態、つまり立たなければならないような状態に追い込まれていたということです。

アーティストになるために「特攻隊で死んだと思ってほしい」と言って上京した

池田:佐世保に試験を受けに行きまして、合格したのが不吉な数で13人。それで鹿児島航空隊に入ったんです。それから訓練を受けて、一年後には飛行機に乗って、一年半後には特攻隊に入っていました。そのときは国内を転々と航空隊を移っていて、岩国に行ったとき特攻隊の編成がありました。これもひどいんですよ。「これから特攻隊を編成する、志願する者、一歩前へ」と一列に並ばされて言うんです。そのときに一歩前に出なかったらひどい目に遭うとか、実に卑怯者だとかなんとかけなされて、ぶん殴られたりするっていう思いがあるから、みんな一歩前に出るんです。言う方も言われる方も、みんな一歩前に出るに決まってると思っている。そうすると300人くらい全員ずらっと並んで出るんですよ。一歩前に出たところを見計らって名前を言うんです。そこで半分くらい、150人くらいになります。つまり、あらかじめ特攻隊は決められているんです。それならば最初から名前を呼べばいいんですけれど、一応志願して特攻隊になったという形をとるために「一歩前へ」と言うんですよ。
その時、僕は選ばれなかったんです。名前を呼ばれなかった。そうするとみんな、名前が呼ばれなかったものだから、何で俺は選ばれなかったのかな、操縦がまずいのかな、人格的におかしいのかなとか。むしろ非常に残念という気持ちになりました。だけど、なんのことはない。それから2か月後には、残りは全部第二次特攻隊に選ばれた。そして岩国から霞ヶ浦に移ったんです。霞ヶ浦からさらに別々にみんなそれぞれ分かれていくんですけど、残ったのは30人くらいです。そして猛訓練が始まった。敵艦に突っ込む訓練です。昼間は危ないから、夜間訓練でした。7月からほとんど夜間訓練です。空襲も飛行場で受けまして、危うく銃撃を受けて死にそうになりました。

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映画『ANPO』より、池田龍雄『ゴム族』(1956年)

リンダ:アートについての話も聞かせてください。

池田:戦争が終わって、猛烈に勉強したくなりまして、それで師範学校に入ったんです。でもそこで先生になっちゃいけないと言われたんです。

リンダ:誰にですか?

池田:占領軍の司令官、マッカーサーです。占領政策で、軍国主義を教育から追放するためにです。師範学校に入って10か月目くらいに校長に呼ばれました。師範学校に入ったのは僕と2人でしたが、僕だけが呼ばれたんです。なぜかというと僕は下士官になっていて、特攻隊の下士官は軍国主義者という風になるんです。もうひとりの海兵の在学中のやつは、年齢は僕と同じくらい、つまり17歳で、もう間もなく将校になるはずだったんだけれど、現役ではないから軍国主義者ではないということになるようですね。彼は追放されず、僕だけが追放された。そこで僕は、これからは自由に生きていきたいと思って、いろいろ考えたんです。小説も書きたかったし、戦後、映画を好きになって、映画作りたいなという気にもなっていた。

リンダ:それは日本の映画ですか?

池田:黒澤明などの作品を観たんです。例えば、佐賀県の伊万里町という町の映画館で観たのは『姿三四郎』(1943年)。それから『素晴らしき日曜日』(1947年)というのもありました。もちろん外国映画もたくさん観てますよ。映画を観ているうちに、ただ感情移入するだけじゃなくて、自分だったらこういう風に作りたいなという視点で観てるわけです。それから小説もいろいろ読みまして、小説も書きたいと。三番目が絵です。
田舎にいると、映画監督も小説家も、どうやってなったらいいのかわからない。小説は実際に書きましたけれど、出版するあてもない。だから諦めるしかない。でも、絵描きになるには美術学校に入ればなれるんじゃないかな、ということで昭和22年に願書を出すことを考えました。23年の1月か2月ごろにようやく願書を出しまして、試験は3月20日くらいにありました。それで親の反対を押し切って東京に出てきたんです。

リンダ:ご両親には何と言ったんですか?

池田:近くに叔父だとか三軒くらい親戚の家があって、一同みんな集まりまして、猛烈に反対するんです。だいたい絵描きになることは、食えないということだから、昔はほとんど世捨て人になるのと同じなんです。「ふうけもんになってどうするんだ」って言われました。「ふうけもん」っていうのは佐賀弁で「馬鹿もん」っていう意味なんですよ。そのときに「特攻隊で死んだと思ってくれ」と言いました。勝手に東京に出て行って、ルンペンになってもいいから、東京へ出ていくんだと。それでやってきた。そのときはまだ19歳ですよ。もちろん受験勉強も何もしてないです。その頃は美術学校なんて受けるやつは極めて少なかった。みんな親の反対を押し切ってくるので、例えばそのとき、多摩美を受けたときは、集まっていたのは100人足らずだったと思います。多摩美はそれまで3年間くらい休校してたんですが、昭和22年に再開したので、上級生は10人余りだったでしょう。入学したのが90何人かで、合わせて100人ちょっとぐらいの学校でした。

リンダ:学費はどうやって稼いだんですか?

池田:師範学校を辞めてからいろいろな仕事をしまして、それでこっそり貯めたわけです。5,000円くらいのお金を作っていたと思います。それを持って、東京に住んでる叔父のところにいきなり転がり込んで、一か月半くらいいました。そのあとは下宿に入るんですけど、その中から授業料を納めて1,500円くらいは残ってたと思います。だから最初の頃は、一日に50円の目安で生活をしていたら、夏休み入る前に無くなったんです。7月の初めから夏休みに入りまして、アルバイトをやるんです。その頃は食糧難で、お米がないので、配給で砂糖を渡される。これはアメリカ軍が放出したザラメの砂糖なんですが、それが一週間分なんです。だから砂糖ばかり舐めて暮らしていました。その間にキャンディ売りのアルバイトをやっていました。残ったアイスキャンディは細ってしまったものなので、売れませんから自分で食べちゃう。砂糖腹でアイスキャンディ食べたら、誰だってお腹こわさないわけがない。4日目でこわした。それで、下宿の近くにあった岡本太郎の母親、岡本かの子の実家である大貫病院に駆け込んだんです。その時は、そうとは知らなかったけれど、秋になって岡本太郎らがやっているアヴァンギャルド芸術研究会に行くようになって、それでアヴァンギャルドになってしまったんです。

リンダ:お腹こわして、アヴァンギャルドに?(笑)

池田:お腹こわしたからなったわけじゃないですよ(笑)。その前に、東京に出てきてすぐに岡本太郎の絵を見たんです。二科の春季展をやってまして、そのときに、岡本太郎の絵だけが僕の記憶に残った。そうしたら同級生で「私、岡本太郎さんところにいるの」って言ってる長野から出てきた女の子がいまして。親父さんが絵描きで、その関係で岡本太郎の家に下宿してたんです。それで多摩川の岸にある小さなアトリエに遊びに行ったことがあるんですが、そのときは岡本太郎はいなくて、秋になって岡本と知り合うんです。病院に駆け込んだのは夏ですから、そのときはまだ岡本太郎には会っていなかった。

真に迫ると人間は不気味に見える

リンダ:多摩美術大学はどれくらい通ったのですか?

池田:行ったのは数か月で、まともに学校に行った日数で言うと70日あるかなという感じです。4月に始まって、7月の初めにはもう夏休みに入ります。そして9月の半ばくらいから後期の授業が始まるんだけど、もうほとんど出なくなり、アルバイトをしてました。東京デザイン社という名前だけは大きいデザイン会社なんですが、新聞広告を見て、そこにデザイン科の学生だと偽りまして入ったんです。
そこでは、5、6人がエアブラシで描いたり、レタリングしたりして働いているんですけれど、できないから、すぐに油絵科だってことはバレてしまいました。1,500円くらいの給料だったと思います。やったのは、一週間ぐらいで銀座の一丁目から八丁目まで両側を克明にスケッチをしていく仕事でした。それはそのとき、進駐軍の買い物用の銀座マップを作るためのもので、すべて正確に店の看板などを描きました。そこも結局2か月か3か月くらいで辞めました。
その次の仕事は、翌年の1月から萬崎という神保町にある小さな洋品店デパートで、その頃は衣服が配給ですから、商売って感じじゃないんです。だけどショーウィンドウに物を飾るとか、新聞広告とか、ひとりしかいないので、宣伝部長兼走り使いとして、全部やってました。

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映画『ANPO』より、池田龍雄『僕らを傷つけたもの―1945年の記憶―』(1974年)

リンダ:映画の中にも出てきた、もう一つのアルバイトの話について聞きたいです。

池田:萬崎がつぶれてしまったので、すぐ辞めて。そのあとでやったのが、進駐軍のポートレートを描くことでした。朝鮮戦争が始まっていまして、パーンと貼った絹に肖像画を油絵で全くそっくりに描くんですよ。当時は大抵白黒だったので、白黒の写真をカラーで再現するというやり方で描くんです。立川に英語のできるやつが行って、注文を取ってくる。二人で写っていたり、三人家族で写っていたりするのですが、人数や大きさによって値段が違うんです。
一人の描き賃が300円ぐらい、二人描けば500円もらえましたが、たちまち技術を会得しまして、一日3枚くらいは描けるようになってきたんです。だから1日1,000円以上稼げるような状態になったんですけれど、そればかりやっていたのでは自分の絵が描けないからセーブしていました。

リンダ:この映画の中に出てくる金髪の女性ポートレート、あの絵って若干不気味なんですが、あれはあえて不気味に描いたんですか?

池田:迫真的に描くと不気味になるんです。迫真的っていうのは真に迫っているという意味です。ダリなんかの絵も不気味になっちゃうんですよ。それは、真に迫ると人間は不気味に見えるようになるんじゃないかなと思いますね。そんなに不気味ですか?

リンダ:不気味ですね。スクリーンに映されて大きくなればなるほど、白人の怖さみたいなものが感じられて。そう意図的に描かれたのかなと。

池田:朝鮮戦争というのは立川の米軍基地から爆撃機が実際に飛び立っているんですよ。それで堕とされたりして、戦死するのが何人もいました。ポートレートの注文を受けて納めに行くと、もういないんですよ。だから結局お金にならないまま残った中の一枚です。恋人かなんかの写真ですが、あれを注文した人は戦死したんです。

リンダ:もしかしたらあそこに写ってる女性がアメリカにまだいるかもしれませんね。

池田:もし生きていたとしたら、1952年くらいのころですからもうおばあさんになってるはずです。

【池田龍雄×リンダ・ホーグランド監督トークショー・レポートの後半は こちら

(取材・文:駒井憲嗣)



★『ANPO』トークイベント
出演:西川美和(映画監督)×リンダ・ホーグランド(『ANPO』監督)
日時:2010年12月21日(火)開場18:30/開映19:00/トーク20:30
場所:渋谷アップリンク・ファクトリー
予約・イベント詳細はこちら

出演:岩上安身(ジャーナリスト)×リンダ・ホーグランド(『ANPO』監督)
日時:2010年12月23日(木・祝)開場20:15/トーク20:30/上映21:30
場所:渋谷アップリンク・ファクトリー
予約・イベント詳細はこちら




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■リンダ・ホーグランド プロフィール

日本で生まれ、山口と愛媛で宣教師の娘として育った。日本の公立の小中学校に通い、アメリカのエール大学を卒業。2007年に日本で公開された映画『TOKKO-特攻-』では、プロデューサーを務め、旧特攻隊員の真相を追求した。黒澤明、宮崎駿、深作欣二、大島渚、阪本順治、是枝裕和、黒沢清、西川美和等の監督の映画200本以上の英語字幕を制作している。

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■池田龍雄 プロフィール

1928年佐賀県生まれの絵画家。メッセージ性の強いルポルタージュ絵画運動に参加。戦時中、16歳で神風特攻隊に任命された。戦後、他人の命令から逃れる為、アーティストの道を選んだ。 1954年最初の個展以来海外合わせて48回開催。国立近代美術館、都美術館等美術館の企画展に多数出品。




映画『ANPO』
渋谷アップリンクほか全国順次公開中

監督・プロデューサー:リンダ・ホーグランド
撮影:山崎裕
編集:スコット・バージェス
音楽:武石聡、永井晶子
出演・作品:会田誠、朝倉摂、池田龍雄、石内都、石川真生、嬉野京子、風間サチコ、桂川寛、加藤登紀子、串田和美、東松照明、冨沢幸男、中村宏、比嘉豊光、細江英公、山城知佳子、横尾忠則
出演:佐喜眞加代子、ティム・ワイナー、半藤一利、保阪正康
作品:阿部合成、石井茂雄、井上長三郎、市村司、長濱治、長野重一、浜田知明、濱谷浩、林忠彦、ポール・ロブソン、丸木位里、丸木俊、森熊猛、山下菊二
2010年/カラー/6:9/89分/アメリカ、日本
配給・宣伝:アップリンク

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