骰子の眼

art

東京都 港区

2011-03-12 17:55


「美しい文字を作ることがデザイナーの社会的役割」『20世紀のポスター[タイポグラフィ]』展トークレポート

東京都庭園美術館で3月27日(日)まで開催中、文字から世界を見る展覧会。
「美しい文字を作ることがデザイナーの社会的役割」『20世紀のポスター[タイポグラフィ]』展トークレポート
『20世紀のポスター[タイポグラフィ]』展より、亀倉雄策《ニコンSP》1957年(1990年再制作版)財団法人 DNP文化振興財団蔵 (c)Yusaku Kamekura

現在、東京都庭園美術館で開催中の『20世紀のポスター[タイポグラフィ]─デザインのちから・文字のちから─』において、「タイポグラフィと私」と題されたトークショーが行われた。当日は、当展覧会の企画を担当した多摩美術大学教授の佐藤晃一氏、中島祥文氏が同じく多摩美術大学教授の澤田泰廣氏を司会に、各氏の作品をスライドで見ながらタイポグラフィの創作論が披露されると同時に、現在のグラフィック・デザインの周辺におけるタイポグラフィへの注目が語られた。同じ1944年生まれで、グラフィックと広告という双方の領域で長きにわたりデザインに関わってきた佐藤氏と中島氏、そして司会の澤田氏も含めた三者三様のタイポグラフィに対してのアプローチの違い、そしてそれぞれのデザインへの考え方から、グラフィック・デザインの展望が垣間見られるトークとなった。

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「タイポグラフィと私」に登壇した佐藤晃一氏(左)、中島祥文氏(右)

ポスターから20世紀全体が俯瞰できる展覧会

澤田泰廣(以下、澤田):この展覧会は、もとはニューヨークのラインホールド・ブラウン・ギャラリーの約3,200点あまりあるポスターコレクションを源に、その中から多摩美術大学美術館の方に研究委託をされまして、われわれ3人が中心となって今回の展覧会の企画に携わらせてもらいました。ヘルベチカという欧文書体が生誕50年を迎えたり、この1月にギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)で秀英体100年を記念した展覧会が佐藤先生も参加されて開かれたり、グラフィック・デザインの周辺で、今タイポグラフィへの注目が沸き立っている最中です。われわれは2年前からこの企画を始めましたが、こうした時代にくしくもポスター展のテーマをタイポグラフィとすることに決まったんです。

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『20世紀のポスター[タイポグラフィ]』展より、エル・リシツキー《「ソヴィエト連邦」展》1929年

佐藤晃一(以下、佐藤):3,200点の作品から、10年前に新宿の伊勢丹美術館で「20世紀のポスター展」と題して、お披露目の展覧会をやったことがありました。その第二弾として新たな展覧会を組み直すことになった時に、何かテーマを設けたいということで、たくさんのカラー図版を広いテーブルの上に並べて皆さんで相談しまして、2案にしぼってシミュレーションをしました。それが2年ほど前の段階なのですが、一つは、今日のような印刷技術がない時代の、モダニズムの影響をあまり受けていない前近代的なレトロなムードを持ったものを、古い絵画を並べるように今もう一度眺めてみたらおもしろいかもしれないという案でした。一般の人が親しみやすく、あまり専門的にならないでポスターを眺められるようにと考えました。

それからもう一つが、タイポグラフィにしぼった案でした。その2案を提案させていただいたのですが、意外にも関係者の方々から、「タイポグラフィの方がずっと面白そうだね」という意見があり、文字を中心としたポスターを選んでみようということで出発したのを覚えています。実際には、どこまでを文字と見なすか、概念があいまいな領域があるわけで、「これをタイポグラフィと認めるか」とか「これは外した方がいいんじゃないか」とか、編集上のいろいろな議論はありましたが、非常にすばらしいポスターばかりでしたので、20世紀全体が俯瞰できるような充実した展覧会になることは、一目瞭然でした。

中島(以下、中島):デザインに興味を持つ若い方たちは多くいらっしゃると思いますが、実際にデザインを始めてみて最初に驚くのは、実は文字なのです。デザインにおいて文字がいかに重要であるか、デザインの仕事を始めていく時にタイポグラフィの存在に気づくわけです。今回の展覧会で、タイポグラフィのたくさんの実例や歴史的な意味を、皆さんに感じてもらえればいいなと思います。

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『20世紀のポスター[タイポグラフィ]』展より、アラン・フレッチャー《ART、「すべての芸術作品は時代の子供である-ヴァシリー・カンディンスキー」》1983年 (c)Alan Fletcher

カリグラフィ的で、書を主題に使った佐藤氏のグラフィック・デザイン

佐藤:決定的な文字との出会いの記憶はないですが、子供のときから絵を描くのは好きで、特にポスターは好きでした。だけど中学生の時の文字はいいかげんだったと思います。高校2年生の時にデザインの道に進もうと決めたんですが、それは大げさに言えば絵画との決別でした。具体的には、『アイデア』という雑誌が発売になり、その広告が新聞に出たときに、編集部に資料請求の手紙を書いたのです。カタログのようなものを送ってくると想像していたら、実際の『アイデア』の8ページか16ページかの抜き刷りが、大きな封筒に入って送られてきたんですね。それがちょうどミュラー・ブロックマンの特集号で、僕はそれを自分の勉強机の前の壁に貼って、彼のタイポグラフィの仕事を見ながらポスターカラーで模写をしたりしました。

僕は自分では日本でカリグラフィを積極的に持ち込んだデザイナーだとは思っていません。横尾忠則さんは子供の頃に書道で大きな賞を取っているほど字が上手いのですが、彼は字が上手いからデザインに取り入れたのではなく、ポップアートやキッチュの延長線上に書き文字の持っている日本の前近代性を、ネガティブなものをポジティブに反転するような捉え方として意図的に持ち込んだわけです。そして、いわゆる哲学的な意味でのタイポグラフィではなく、絵画的な関心で字をモチーフに使ったのであり、建築的なタイポグラフィではないと思います。

日本語が書かれていなくても、日本固有のモチーフが使われていなくても、日本の文化としてのデザインになっていることが大切だと思います。抽象的なパターンでも、オートマチックな表現であったとしても、アメリカ人には絶対にできないものがその中にないといけない。私はそれを「日本語の表現」と言うのです。視覚言語が日本語になっているという意味です。

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トークショー「タイポグラフィと私」の様子

スタンダードな美学を持ち、ディティールの緊張感を持つ中島氏のアート・ディレクション

中島:ミュラー・ブロックマンのポスターは、今回の展覧会の中でも、非常に印象の強い、中心的な作品の一つだと思います。僕はこの作品を、大学3年生、21~22歳の頃に見まして、ごく普通にそのまま受け取りました。音楽会のポスターなので音楽を抽象化したかたちで表現しているですが、グラフィック・デザインの決定的な完成度というかレベルの高さよりも、むしろ文字の扱いの美しさに深く惹かれました。当時あったグラフィック・デザインなどの本にこれが紹介されていたのです。

ブロックマンの言葉だったかはわかりませんが、「書体というのはできるだけ1つ、大きさもベストは1つ、やむなくば2種類」という言葉ありまして、この作品を見た当時からそれは僕の体にバーッと入ってきたんですね。もちろん、書体数が多くて大きさの変化があることがデザインの面白さになっている場合もあるのですが、広告では、要素を整理して分かりやすく伝えることが重要ですから。それと広告の場合、メインに写真という要素があるので、それを補完するという働きもあります。そういう意味で、広告の仕事を始めた時に、ブロックマンの1つの書体というのが、自分の骨格になっていた。さらにいうと、全体のスペースの取り方にも非常に影響を受けました。

広告と文字の話でいいますと、広告はまず基本にどういう発想をするか、どういうクライアントか、どういう企業か、どういう商品かということを追求して、分析していって、そのなかでいまいちばん伝えたいものをビジュアル化することを大事にしています。その発想と同時に、もう一方でデザインもまた大事なんです。その両輪がないと広告が成立しない。それくらいホワイトスペースや文字の考え方は広告にとって重要な要素であるということです。

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『20世紀のポスター[タイポグラフィ]』展より、原弘《日本タイポグラフィ展》1959年 特種東海製紙株式会社蔵 (c)Hiromu Hara

人とのコミュケーションのスタンスをどこに置いているかが大事

澤田:僕自身はあるテクノロジーをきっかけとして文字というものを積極的に自分のなかに取り入れようとしているんですけれど、基本的にはグラフィックの仕事としては(文字は)本当のセンターにくるものではない、もちろんものすごく大切なもので、自分の骨というものだということは解っていますけれど、それを妙に細かいディティールに持ち込むのではなくて、いい距離感を持ちながら文字というものにしっかりと対峙したいと思っています。新しいテクノロジーの時代に、若い人にとって文字とタイポグラフィを勉強していくうえで忘れてはならないことや、文字に対するアプローチの仕方はありますか?

佐藤:文字というものは、時代の変化に対して変わらないところがあるということです。形の表現としては、いろいろに時代やテクノロジーによって変化するかもしれないけれど、言葉というものを人間が持って、変わらないでいるので、文字はずっと付き合わざるをえない宿命に人類は置かれている。なので国語が国によって違ったりしますけれど、文字というものは(変わらないものを)引き継いでいる。美しい文字を使っているかどうかがその国の文化のバロメーターだとすれば、デザイナーの社会的役割のかなりの部分が、文字が美しく使えるかということにかかっている。そのときに大事なのは、ほんとうに手で書く文字を大事にするということが、機械を使って文字を美しく表現する唯一の方法ではないかと思います。

中島:僕の場合は広告を主体にしているのでそういう観点からだと、僕の仕事のなかでも微妙に文字の組み方が時代によって変わるということはあります。必ずその時代と文字はいつか変化していきますが、そのなかで大事なことは、芯を持っているということだと思います。ある人は可読性と言うかもしれないですし、ある人は画面全体をひとつの新しいイメージに持っていくための引っ張る力になるべきという風に考えたり、いろんな視点があっていいと思うんですけれど、そうした軸のなかで、そこに置かれた文字を人々がどんなふうに見るんだろうか、その時代のなかでどんなふうに感じられるのかということを一方で常に意識しながら、文字に対する考え方を持っていくということが大切だという気がしています。
広告ですので、発想方法は時代の影響を受けるところが強く、それによって文字が変化していきます。ですが、僕なりの考え方を言いますと、人とのコミュケーションのスタンスを自分がどこに置いているかということが、広告にとって非常に大事になっている。僕は企業も制作者も受け取る人たちも同一線上にあるという考え方をしているんです。そこには上下関係がない。でも、広告は発信者から受け取るだけ、上から下への関係であると逆の考え方をする人もいるかもしれない。そんななかで、どういう発想をしていくかということをいつも考えています。そして、時代との関係からある発想が生まれたときに、それと文字の結びつきを広告のなかで常に意識していくことが、広告が常に時代のなかで生き生きとしていけるひとつの方法だと思います。

(取材・文:駒井憲嗣)
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『20世紀のポスター[タイポグラフィ]展』より、ブルーノ・モングッツィ《「結婚」オスカー・シュレンマー、イゴール・ストラヴィンスキー》1988年 (c)Bruno Monguzzi



『20世紀のポスター「タイポグラフィ」-デザインのちから・文字のちから』

2011年3月27日(日)まで開催中
会場:東京都庭園美術館[地図を表示]
時間:10:00~18:00(入館17:30まで)
料金:一般1,000円、大学生800円、小中高校生・65歳以上500円
休館日:第2、第4水曜日(3月23日)
割引情報:ドレスコード割引
文字のデザイン=タイポグラフィに注目した本展にちなみ、漢字がプリントされた服装でご来館されたお客様は100円割引いたします(*他割引との併用はできません)。

公式サイト




イベント情報

『ギャラリートーク』
2011年3月24日(木)
会場:東京都庭園美術館展示室内
時間:15:30~
料金:無料


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