骰子の眼

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2013-01-18 14:03


「自分自身を表現はしない 僕は、そこで、感じているだけ」津田寛治インタビュー

竹中直人監督の最新作『R-18文学賞vol.1 自縄自縛の私』に出演している俳優の津田寛治氏のインタビュー
「自分自身を表現はしない 僕は、そこで、感じているだけ」津田寛治インタビュー

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。

2月2日(土)から公開となる、竹中直人監督の最新作『R-18文学賞vol.1 自縄自縛の私』に出演している俳優の津田寛治氏のインタビューをお届けします。

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観客として感動したまま、ストーリーと役に入る

『R-18文学賞vol.1 自縄自縛の私』でキーパーソンを演じている津田寛治。表裏ある難しい役どころをさらりと妙演し、映画を活気づかせる。竹中直人の監督作品にはこれまでも出演。俳優として共演もしている。気心が知れているからこそ成立している?と思いきや「竹中さんの演出に助けられました」と即答した。

「最初『自分を縛る役』と聞いたときは、やはり異空間に突入していかないといけないのかなと思っていたんです。家では家族が出払ったのを見計らって(笑)ひとりでコソコソ練習したりしていました。でも、どうしてもエロティックな気持ちになれないんですよ。職人的な気持ちになってくる。この気持ちと演じる役が重なってくるか不安だったんです。でも(撮影)現場に入ると竹中さんが、本番直前に『いま、外では雨が降ってるよ……すごい哀しい気持ちだよ……』と言ってくれたりする。その言葉にすごく助けられたなあって。竹中さん自身もSMへの興味はなかったようで、『オレ、わかんないんだよね』とおっしゃってて。たぶん、竹中さん自身がそんなふうにして、よりどころを見つけていたというか。やっぱり俳優をされている方だから、もし自分がこの役だったら……という想い――つまり竹中さんの役作りをそのまま映し込んでくれているみたいな気がしたんです。そうか、竹中さん、いつもこんなふうに考えながら演じているのかな?みたいな気持ちになって。

竹中さんの映画はもう4本目なんですけど、いままで竹中さんの演出にそういうことを感じたことがなくて。これまでは監督というものを演じてらっしゃるな、と。こんな監督に出逢えたら楽しいだろうなという監督を演じていらっしゃったと思うんです。現場を盛り上げるという意味も含めて。今回はこれまでのそういう印象がなくなっていて。俳優としての自分を監督業で出されているような気がした。いままでとはちょっと違う感じがあった。いつもの(俳優としての)竹中さんでいらした。だから、俳優として俳優に言ってくれてるみたいな気がして。すんなり入ってきたし、竹中さんが乗り移ってきたような気がしたんですよね。結構、口笛をたくさん吹かれていて。俳優業されているときは結構口笛吹かれて、飄々とした感じでいらっしゃるんですよ。でも監督のときはそうではなかった。それが今回は口笛を吹いていらした。竹中さんの口笛がこの役に入るためのサウンドトラックのようでした。そのシーンのテーマ曲として、あの口笛はなっていたような気がするんです」

構えることなく、そう話す。自分を縄で縛る。そんな秘密の趣味を持つ男の焦燥と開き直りを体現する様には、津田独特のリアルが滲む。けれども自分がどう演じたかよりも、竹中の現場のありようこそを気持ちをこめて描写する。

「楽しいな。楽しいな。そう思いながらやっていました。竹中さんが(役の)気持ちを芝居で表現するのを見ていると感動してしまうんですよ。僕もそこに感情移入できて。観客として涙も出てくる。だから、観客としてその場(撮影現場)に(俳優としての自分が)ばっと入る感じ。これはすごくやりやすかった。俳優として何をやるかではなく、観客として感動したままの気持ちで、その役になっていく。いままで味わったことがないような感じ。感動している時点で、もうストーリーのなかに入っている。ストーリーに入った状態で演じる……すごく不思議な感じでした」



カメラの前に立たないとき、どう生きているか

津田は生粋の映画青年である。俳優であるいまも映画青年であり続けている。『無能の人』を観て、竹中直人にラブコールを送り、『119』で出演を果たしたあとも、一観客として竹中監督作品に接してきた。自身が出演していない『さよならCOLOR』では「日本映画史に名を残す監督になるんだろうな」と感激したという。

「今回はそれとは違う一面を見させていただいたなと。監督を超えたところに映画がある……というのかな。映画作りって不思議だなあと。まだまだ新しい作り方に出逢える。素敵だなあって」

津田が他の俳優と決定的に違うのは、観客としての自身の抱え方だと思う。彼は単なる「映画好きの俳優」ではない。

「たぶん、ごっちゃになってるんですよ。僕の頃はあんまりそういう俳優がいなかったんですね。映画ファンが監督になる、ということはあるんですけど、俳優はやっぱり見せる仕事で。映画ファンよりは、たとえば芸能界に憧れているとか、自分が大好きとか、そういう人が俳優をやっていた。映画ファンが俳優やってるって、あんまりなかったんですよ。いまだと西島(秀俊)君とか映画好きはいるけど。当時は珍しい方だった。よくスタッフさんに『津田さんはスタッフなんですか? 俳優なんですか? どっちなんですか?』と訊かれるくらい、ほとんど控え室にいずに、ずっと現場にいたんです。自分の大好きな監督が、どうやって映画を作っているか、見たいっていうのがすごくあって(笑)。その合間に出演しているみたいな。見学がメインみたいな(笑)。そのことと演じるということを、別に分けてもいなかったんですよ。まず、自分に何かを期待されているということを思ってなかった。たけしさん(=北野武監督)の『ソナチネ』からずっとそうです。

たけしさんは俳優に何かをやってもらうことを求めていなかった。ただそこに立ってるだけのことしか望んでない。(いわゆる)芝居をやり出すと、どんどんNGになってしまう。竹中さんも『役者に役作りは必要ないんだよ。僕がキャスティングした時点で役作りは終わってるんです。何にも考えないで現場に来てくれるだけでいいから』とおっしゃった。たけしさんは言葉にしなかったけど、演出はまさにそうでした」

キャスティングすること。それが監督にとって、俳優に対する最大の演出であることを津田は知っている。役者として。そして映画ファンとして。

「この人に出てもらいたいと思ってくれたんじゃないですか。それは『じゃあ、何やってくれるんだろう?』ではないんですよね。逆に何かやられてしまうと、キャスティングした意味が薄れてくる。そういうことだったんじゃないかなと」

津田の芝居を見ていていつも思うのは、その自意識の取り扱いである。自分自身を表現する、というところとは別のところにある演技だという気がする。

「たけしさんに『俳優はカメラの前に立って何かをやっているときよりも、カメラの前に立ってないときに何をやっているかが重要なんだ』と言われたことがあったんですね。要は日常をちゃんと生きてれば、カメラの前でもそれが出るし、カメラの前に立ったからといって、わざわざ何かをやる必要はない、と。それが身体に刷り込まれているからかもしれません。カメラの前で何かを表現しないことに対する抵抗がまるでなかったんです。たぶん僕は気質的に、そういう表現者的な部分が薄いのかなと。たとえばイッセー尾形さんは生粋の表現者ですよね。出ている映画はどれも素晴らしい。でも僕はそこにはいけないんです。表現するより、感じるタイプというか。そのとき自分が何を感じているかが重要で、その感じている自分がどう映るかは全部カメラの向こう側にいる人(監督他スタッフ)に任せるというか。(周りに)表現してもらって、自分はそこで何かを感じているだけというか。表現者としての俳優は意識したこともないし、それに対するプライドもないといえばないですね」

アウトプットより、インプットが重要なのだ。

「僕の場合、それはいくつになってもそうなんだろうなと思います」

Artist Choice!


いま映画は、生まれ変わりの時代に入っている

映画ファンであることと、俳優であることが「ごっちゃになっている」と津田は言った。その意味で、津田の特筆すべき点は、まだ無名の監督のインディーズ作品にも軽快に出演してしまうことだ。それは映画にデジタル技術が導入されて、映画を撮ることがカジュアルになった時代よりも前から始まっている。そのアプローチは現在一段落していると語るものの、自主映画に津田のようなプロの俳優が出演することは、かつてはありえなかったことだった。

「キューブリックがすごく昔に、『近い将来、そこらへんの少女が紙と鉛筆の感覚で映画を撮る時代が来るだろう』と書いていて。それを読んだとき、すごくワクワクしたんですよ。映画を撮りたいと人が考えるとき、シーンが浮かぶわけじゃないですか。こういう映像を撮ってみたいとか、役者のこういう芝居を撮ってみたいとか。でもいざ撮るとなると、いろんな人の力を借りて、いろんな人の意見を聞いて、気がついたら全然やりたかったことと違うケースになってることが、かつてはすごく多くて。それをとっぱらって、いま自分が何かを見ているような感覚で、パッと撮って、パッと切り取って、パッと出す。もし、そういうふうにできるとしたら、世の中にはもっともっと名監督が隠れていて、発掘される時代がくるんじゃないかと思ったんですよね。それはなんて素敵なことなんだろう、と。どんどんそうなればいいと思っていたら、どんどんパソコンが映像に特化してきて、いまの状態が訪れているんですよね。

異業種の方が簡単にパパッと撮れるようになった。編集のセンスがあるひと、撮るセンスがあるひと、役者に芝居をつけるセンスのあるひととか、いろんなひとが才能を開花させてきたいまの時代になって、でも、これは何か違うなと、そこにも行き着くところがあって。それ(そうして出来上がった作品)が映画なのか、そうでないのか、というところもあるじゃないですか。じゃあ、映画って何なの?と考えてみると、ああだこうだ言われて違うものになってしまうのが映画だったの?って。1カット、1カット、ものすごい緊張感のなかで大事に撮って、大事に撮ることによって変わるものこそ映画だったんじゃないかなとか。いま、またそこに気づき出している。映画というものが、すごく面白いステップアップの仕方をしていると思うんです。それはすごく興味深いなあと思っていて。そこにはひょっとしたら役者の自意識とかも含まれているのかもしれない。カメラの前で何かをするという緊張感とか。この緊張感をとっぱらう文化が盛んだったと思うんですよね。なるべく楽にカメラの前に立つ。そういう演技法とかメソッドもあったりしたし。でもそれがこれだけ若い人が映像慣れして、簡単に撮れる時代になって、いままた逆にカメラの前での緊張感が求められ出すんじゃないかなあって。そうなったときには、僕も自意識というものに向かい合ってみるのも面白いかなとは思いますけどね」

撮る側と撮られる側。カメラという垣根で分割されていたふたつの場所がなくなり、キャスト・スタッフが共に映画作りに立ち向かう自主映画の世界が楽しかった時期もあったという。けれども誰もが映画が撮れるようになったいま、何かが失われたのかもしれないと懸念する。

「カメラのこっち側とあっち側がゆるくなってて、それで面白いこともあれば、失ってしまったこともあったりして。逆にそこの垣根を高くしてみて、こうあるべきだろう、ということも、いまならありえるかもしれない。かつて映画というものはお金がかかるものだから簡単に撮れないと思われていた。でも、いまの時代は簡単に撮れるようになった。それでみんなが好き勝手撮るようになっていいものになったかと言ったら、求めてる理想とは違っていた部分もある。だとしたら何が足りないのか。何かが欠如しているとしたら、それは何か。そこを考える段階なのかなとは思うんですよ。緊張感なのか、空気なのか。目に見えないエーテル的な何かかもしれないけど。そこにみんなが目を向け始めているかなって。かたちにならないものっていうか。そこを探り始めていると思うんです。一回壊れないと生まれ変わらないだろうなと。映画はこれから先、生まれ変わりの時代に入っていくような気がしています」



明日、どこに連れて行かれるかもわからない人生

シリアスな話をしたあとに、ぽろっと次のようなことを言う。そもそも、なぜ自主映画に出演していたかという理由について。

「何かで聞いたことがあったんですよ。海外の俳優って、どんなに売れてても、めちゃくちゃ小さい自主映画のチョイ役でも平気でやったりするんだよね、って。そこが日本の俳優と違うんだよね、って。それはめちゃめちゃカッコいいなあ!って(笑)。だから、なんで自主映画に出てたの?というよりは、これ、海外だと当たり前のことなんだ、と思うことで、自分のなかでナチュラル化してたところもあったと思います。でも、日本映画界もそうなったら絶対面白いなと思って」

北野武、竹中直人、行定勲、森田芳光、黒沢清……そうした監督たちと仕事をしながら、一方でインディーズ映画にも出演してきた津田寛治。そのキャリアの交差点ともいうべき作品が、2012年に公開された『旧支配者のキャロル』だった。これは高橋洋監督が映画美学校の生徒たちと作り上げた中編で、低予算ながら映画ならではの力強さに打たれる傑作だ。

「高橋監督は、映像技術とは違うところで、一種の緊張感を作って撮り続けていた。かつて、お金をかけないと得られなかった緊張感を、今度はお金をかけずに得ようとするひとたちが、次世代から生まれてくる可能性はあるかもしれません。それを高橋監督は若い人たちにちゃんと受け継ごうとしている。お金をかけることが映画じゃない。かといって、低予算でガンガン作るのも違う。予算のない現場で、あの空気感を作り出すことが重要なのだと」

「僕にとっては演技もひっくるめて、すべて映画」と当たり前にように話す。

「俳優としてこれからどうするかとか、本当に考えにくいし、何も見えてこないんですよ。どういう俳優になりたいか……タレントだったら、それもあると思うんですけど。こういうタレントになりたいというものが。俳優は役がないと成立しない。自分発信でいろいろ作っていける職業ではないんで。こういう役があるから、こういうアプローチ、というか。将来が見えにくい、言ってみればお座敷稼業なんですよ。もちろん、自分の世界観は持ってないといけないけど、それを表現するのはまた違うこと。世界観を表現しないで、ただ持ってるだけ。何かが来たときに、持っている世界観が色を変えて出てくる。その世界観単体だけで何かが表現できるわけではない。不思議な仕事だなあと。でも、先が見えない仕事だから続けてこれたのかなあとは思いますね。僕、同じところに通うのも苦手だし、先が見えてしまう人生も苦手なので。明日、どこに連れていかれるかもわからないなかで、行った先、行った先で、自分の想いが変わっていくというのは楽しいし、これこそ求めてた人生だなあって」

取材:相田冬二 撮影:平田光二


津田寛治'S ルーツ

僕の田舎(福井)に放送会館という映画館がありまして。中学、高校の頃、その映画館に行きたくて映画を観ていました。ときには学校もサボって(笑)。僕にとっての映画はスクリーンに映っているものよりも、その外側にある闇だった。その闇に自分を埋め込んでしまうことで、現実逃避してたんですね。闇が自分を抱え込んでくれる、みたいな。すごく薄暗くて、二階にあがる階段の下に売店があって、そこでおばちゃんがいつも文庫本をじっと読んでいた。そこで待っていると壁伝いに微かに客席から映画の声が聞こえてくる。静かななかで、これから観る映画の音が聞こえてくる。あの瞬間が本当に幸せで。中に入って客席に座って。客電が消えて、ふわっとなる。あの瞬間がすごく好きだったんです。映し出されている中身より、環境の方が大事でした。入り込める環境作りをしていてくれたんだなあと。ああいう映画館があったからこそ、本気でスクリーンの向こう側に行こうと思ったんだと思います。

津田寛治(つだ・かんじ)プロフィール

北野武監督の『ソナチネ』で映画デビュー。以降、北野作品を始め、映画、テレビドラマに出演し注目を浴びる。第45回ブルーリボン賞で助演男優賞受賞、第17回東京国際映画祭「日本映画ある視点」部門作品『樹の海』では特別賞を受賞。『東京日和』(竹中直人監督)『贅沢な骨』(行定勲監督)『模倣犯』(森田芳光監督)『妖怪大戦争』(三池崇史監督)『恋の罪』(園子温監督)『月光ノ仮面』(板尾創路監督)など数多くの映画に出演している。2月には竹中直人監督作品 『R-18文学賞 vol.1 自縄自縛の私』が公開される。




『R-18文学賞 vol.1自縄自縛の私』
2013年2月2日(土)新宿バルト9、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開

監督:竹中直人
原作:蛭田亜紗子「自縄自縛の私」(新潮社刊『自縄自縛の私』所収)
脚本:高橋美幸
出演:平田薫、安藤政信、綾部祐二(ピース)、津田寛治、山内圭哉、馬渕英俚可、米原幸佑(RUN&GUN)、銀粉蝶 他
配給:よしもとクリエイティブ・エージェンシー
上演時間:106分
(C)吉本興業
公式サイト

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