右より、三浦みなみさん、會川えりかさん、橋本まみさん、『タリウム少女の毒殺日記』土屋豊監督
第25回東京国際映画祭で『日本映画・ある視点部門』で作品賞を獲得した『タリウム少女の毒殺日記』が公開。『10年代の幸福論』をテーマとして、『タリウム少女の毒殺日記』の土屋豊監督2010年代における「幸福」とは何かを語る企画。ライターの朝井麻由美氏、そして社会学者の大澤真幸氏との対談とともに、今回は番外編として18歳女子大生3名に登場してもらった。タリウム少女と同世代の18歳女子のリアルな眼差しを通してタリウム少女はどのように映るのか、冷徹なまでの観察者に共感できるのか。そして彼女たちが秘める「幸福」とはどのようなものなのか。土屋監督が彼女たちの胸の内に迫った。
幸せですか?「不満はあるけど休憩が欲しい」
人生をネタだと思える程自分を客観視できる視線
三浦みなみ(以下、三浦):『タリウム少女の毒殺日記』を観て、タリウム少女は怪物のような存在ではなく、何かしらそういう部分は現代の私たちの中にも存在すると感じました。何もかも客観視する面は自分にもあります。タリウム少女の視点と同じ視点を自分も持っていることに気づかされ、怖くなりました。それは決してタリウム少女が怖いのではなく、そういう自分に気づかされハッとした、という感覚です。
會川えりか(以下、會川):主人公の顔が印象的でした。自分も無表情なので……。そんなところに共感しました。
橋本まみ(以下、橋本):実際のタリウム少女について調べてから観たので、この映画でも無機質に描かれているのかなと思いましたが、観察するときに人間味を感じて痛々しかったです。母親にタリウムを投与して痛めつけるときに「わたしならどう思うのかな」と、同世代の女の子の気持ちと自分を重ね合わせることができて楽しかったです。
土屋監督:実際のタリウム少女は2005年当時16歳だったのですが、皆さんは?
3人:小学5年生でした。
土屋監督:タリウム少女と同じ虚無感は持っていますか?彼女の視線のもとになるものは何だと思いますか?
三浦:虚無というより私も同じ視線で、自分を冷静に観察しているところがあって、みんながわぁっと盛り上がっていたら、そこに入るというよりその様子をぼうっと見ていたりするんです。そこにいつつ、自分はそこに入っているのではなくて、その人たちを観察している、そこからいろいろ考えることがあります。
會川えりかさん
土屋監督:今の世の中は構造的に客観的に自分を見ざるをえない状況になっている気がするんです。映画でもその点を描いています。例えば友達とご飯を食べているとき「そこにいる私」を客観的に見ていて、こういう風にふるまうべきと、俗にいう空気を読むではないですが、常に自分をもう一人自分を観察する自分がいて、ある種演じている。
三浦:私は文章書くのが好きで小説も書いているのですが、冷静な視点、その中に自分がいたりするので、いやではないです。社会的にもSNSが流行っていますが、多分あれももう一つの飾り付けられている自分を作っているような気がするんです。社会的にもその風潮があるような気がします。私自身はSNSは好きではなくてやっていないんですが。
橋本:わたしは気性が荒いので、だからこそ常に冷静で客観視というわけでなく、主観がピークになって「あ、やばいな」となったら、客観に切り替える手法を取っています。高校時代に人間関係で悩んで、大げさに言えば生きる術、生き延びるために自分を客観視して自分の人生自体を物語としてみるやり方をしていました。どんなに苦しいことやトラブルも一つの物語の中のトラブルとして捉えていました。客観視していたら「物語的には面白いよね」という見方ができたんです。そう思うことで辛いという気持ちを実際の自分から引き離してみることができました。
會川:17歳の時に人生が全部ネタに思えてきて……。
橋本::ネタにしてこれを誰かに話したら面白いだろうなって思うことがあります。現代に限らず本を読むと不幸な人が主人公だったりしますよね。自分も主人公だと思って、「これはしんどい小説なんだ」と。
會川:私もよく私小説を読んでいたんで。「ネタっぽいな」みたいな。
橋本:物語とすれば「これは山場だな」と。
土屋監督:自分でコントロールする方法論をもっているのですね。
橋本:このままじゃ、ピキッていきそうと思ったら、「ひこうひこう」と。わたしが客観視するようになったのは日記が最初でした。
三浦みなみさん
高校の教室と世界の構造は同じ
土屋監督:映画の中のタリウム少女は自分を含めて観察しながら、いじめられている自分を観察することでいじめそのものを相対化して、自分の物語のなかに入れてしまっています。それもネタですよね。いじめはどうしようもなく必要なものだから、そのシステムの中に私がいるだけであって、私がいなくなれば誰かが来るだけ、そのくらいまでに客観視していました。タリウム少女はスーパーに行ってものを買うのも、買うようにシステムとして仕向けられていると、世の中の仕組みすらも観察しています。アマゾンで私はここをクリックしたらこの広告が入るというようなネットの仕組みとか、さらに世の中を俯瞰してみて、結局世の中この程度のようなものだと自分でも決め込んで世の中を見ている。同様に人間、動物も分析すれば結局DNAの設計図でできているものであって、僕も皆さんもほとんど変わらず、99.9%は同じだから個性なんて大したものじゃないと人間すらも引いてみているわけです。物事を、あるいは世界を自分だけじゃなくて客観的にみてしまって、「世の中ってもう新しいことが起こらないんじゃないか」「つまんないなぁ、でも檻だから抜けられないなぁ」とタリウム少女は考えていたのです。そんな感覚をもつタリウム少女に共感を持てますか?
橋本:世界観って言うほどではないんですが、高校生の時は教室と世界全体の構図は一緒だなと思うことがあって、誰かが、虐げられる存在が必ずあってそのことによって集団の秩序が保たれているような感じが教室の中にも世界の中にもあるのではと思いました。戦争とかいじめが一緒のものであれば無くならないものだなと思って。いじめの標的になるのも、この人がこうだからという理由はなくて、必要なポジションに誰かが入れられると、人間は醜いなと思いました。
土屋監督:友達といたり学校にいたときに自分のポジションが気になりますか?
橋本:高1の時に嫌われている子がいて、その子がいなくなったらまた別の誰かが標的になっていたんだと思うと、今仲の良かった子も信用できないなと思って。自分でポジションを作らないようにしていました。
橋本:もともと進学クラスではないところから進学クラスに行って、 「キャラ」みたいなものがあるなと感じて。
會川:クラス内でいろんな「キャラ」があるんです。盛り上げ役とか地味キャラとか、その中に「~キャラだよね」と位置づけされると面倒くさいからグループを抜けようかなと。
橋本:特定のグループに所属しない様にしていました。最終的には「謎キャラだよね」とか言われて終わる。
橋本まみさん
周りにある小さな幸せと『自己肯定』
土屋監督:自分を客観視することと同じように、世の中も一つのシステムのように考えて、世の中は変わらないんだ、という考えをもってタリウム少女は観察しています。「人間は最終的にはこの程度のプログラムなんだ。この程度のプログラムは自分自身で変更してもいい。だったら簡単に光れるじゃないか」と、出口みたいなものを見出すストーリーになっています。 皆さんも自分を観察するように社会を、システムを観察しそれに縛られているけれども 「それは変えられないから」、「いやこうすれば変えられるのでは」など考えますか?
三浦:社会全体のことで、正直あれが大変そうだな、まずいんじゃないかとは思うことはありますが、残念ながら社会を変えようと大きな意識は出てこないです。社会全体に対する希望といわれると正直言ってそんなにないかも知れませんが、自分の周りの小さな世界でちょっとした幸せとか、自分の日常の中で小さな嬉しいこと面白いことを見つけたり、そういう部分での希望はあります。なので、大きなところで言われると、今の社会のシステムもごちゃごちゃしていて正直分かりづらかったりすることもあるので、本当にちょっと自分の近くで幸せあったらそれで結構満足している自分がいるというか、そんな感覚です。
土屋監督:今、なにか不満はありますか?
三浦:これが不満とか不安というのはないのですが、普通の日常が過ぎて行って、ある程度楽しいことも毎日あって、誰かとちょっと騒いだりして、でもそんな普通の日常が過ぎてしまって、夜に家帰ってふと一人になった時に、結局なんだったんだろうなって思う瞬間があります。また明日もどうせ今日みたいな明日が来るんだろうなと思うと、特に大きな不安があるわけでは無いですが、軽い閉塞感のようなものは時々感じたりします。
橋本:不満なことは「休憩が欲しい」。
(2人うなずく)
橋本:中学3年間、高校受験、高校3年間、大学受験、大学4年間、就活と続けてきて、1回でいいから、成績がどうとか考えずに、じっくり考える時間が欲しい。このまま会社員になれなさそうという自分と、でもビビッて無難に会社員で生きようと思っている自分がいます。本当にやりたいことやっている先輩がサークルにいますが、その人は5年生で、でも自分で好きな事を見つけています。でも留年しないとそういうのが見つからないのかと思うと、どんどん時間が過ぎ過ぎてなにかレールに乗せられて、あたふた生きている感じがしています。
『タリウム少女の毒殺日記』より
土屋監督:どうあったら自分が幸せを感じられるでしょうか?
三浦:レールに敷かれた人生というのは違う気がして、強がりかも知れませんが、安定をあまり求めてなくて、わがままかも知れませんが不安定でもいいからレールから思いっきり外れてでもある程度好きなように生きたい。マニュアルみたいなものではなくて。これまでもあまりレールに乗せられた感はありませんが、乗ってこなかった自分をそのまま認めてくれるというか、受け止めてくれる人もいて、それは幸せだったかなと思います。今も何もかも受け入れてくれる人がいて、それはすごく感謝しています。
會川:そんなに不幸せだと思ってないですし、幸せと言えば言えるかなという感じですけど。この瞬間楽しければいいやっていうところもあるんですが。
橋本:幸せを感じるときは、自分のしたことを認めてもらえた時。やっぱり自分の中から出てくるものじゃないでしょうか。いわゆるリア充彼氏がいる=幸せも。突き詰めていくと自分を認めて貰えるということもつながると思います。自分を認めてもらう=幸せという、必ずしも恋愛に限らず、自己肯定でしょうか。
會川:自己肯定ができている瞬間は幸せです。
橋本:こうだから幸せではなくて「時より」だよね。 時よりの幸せに支えられて生きていくんだよね。
『タリウム少女の毒殺日記』より
土屋監督:タリウム少女は自己否定していませんね。
會川:でもいじめられてる状況を否定しないことで結局自分を否定してるんじゃないでしょうか。いじめられてる状態はそんな、特にいいことではないし。
橋本:でも最後は自己肯定はしてますよね。
土屋監督:最後は出できたんですよね。最後は自己肯定できたから自ら光ってみようと思って、それが楽しいことだと思って、自由だと思って、「光っていいんだ、人間は」と。タリウム少女は最後に、そこに降り立った世界からの出口みたいなものが見つかって、光るぞ、まだいけるぞと思ったので、ある種の肯定感があったのだと思います。それまでは自分を否定するより、否定も肯定もなくこういうものであると。以上でも以下でもないみたいな感じだったのだと思います。
人間としての窮屈感への共感
橋本:10年後、2020年代の幸せはどう変わっているか考えると、そのとき私は28歳……老いが怖いです。おじいちゃんや高齢の両親と暮らしをしていて、長生きって、老いってなんだろうと思って。女の子は特に30歳前だし、期限もありますし、老いを恐れていますね。体もきつそうだし、判断力も鈍って。おじいちゃんは健康オタクで、詐欺まがいの健康グッズを買い漁っていて。死を恐れているみたいで、いつも湿布を貼って、ここがおかしいなと病院に行きまくっているのを見たりとかすると、「あぁ……」ってなる。28歳ともなればもう30歳だし、ほぼ老いも近づいていると考えてしまいます。
土屋監督:老いるとこうなっちゃうんだろうな、やだなっていう恐怖感があると。その枯れていくポイントは30歳なのでしょうか。
橋本:人それぞれでしょうけど、生きるところまで生きてしまったら、死ぬに死ねなさそうだから。最後お葬式の写真が綺麗だったらいいなって。若い遺影があったらいいな。
橋本:40歳は無理です。想像もしたくない。
會川:1ヵ月前くらいから植物を育てるのが好きになってきたので、10年後は家をジャングルみたいにしたらいいなと思います。今までは植物を全部枯らす人だったんですけど、いいなって思えるようになってきたんです。基本的には働きたくないのですが、植物を見たら「この子たちの為なら働いてもいいかも!わたし幸せになれるかも!」と思えるようになりました。
三浦:行き当たりばったりで生きて行ければと考えます。先のことを心配してたらきりがなくて。心配して心配して心配して、が重なってしまったたら人生すぐ終わってしまいます。そういうのではなくて、ひとりとかふたりとかで無計画に適当に町に出て迷って日が暮れるみたいなことがよくあるのですが、心配するとかこれが幸せだと決めつけるのではなくて、好きなように生きていけたらいいのかなと思います。どうしようもない生活を送っている中で、夜に飲むお酒がもし美味しくて幸せだってその時思えるんだったら、それでいいんじゃないかなって思います。
『タリウム少女の毒殺日記』より
土屋監督:タリウム少女の最後の選択はどう思いましたか?
三浦:タリウム少女なりに日常生活の打破というか、こういう形でジャンプしたんだなって思ってふっきれたのかなとそういう感じです。すっきりするようなラストでした。
橋本:わたしはタリウム少女に虚無感ではなく人間味を感じていて、光りたいというのは人間じゃなくなりたい、人間やめたいと言うことで、人間であることに窮屈さとか辛さを感じていたかと思うと、そこは自分たちと同じなのだろうなと思いました。
土屋監督:人間としての窮屈さ、ですね。
會川:よかったな、と思いました。生き生きしていたんで。あのスタンスは疲れちゃうだろうなと思って。次に行ったのかなって思いました。以前私もスタンスを変えてみるっていうことにはまっていて。
土屋監督:例えばどういう風に?
會川:嫌な人に対するスタンスを、こういう感じでいったり、ああいう感じでいったり。試行錯誤して、アプローチを変えてみるみたいな感じです。
會川、橋本:「無視するバージョン」「戦うバージョン」「おもねるバージョン」。こういう私で行こう、次はこれで行ってみようとか。
土屋監督:いろんなバージョンの人に対するスタンスを楽しんでみるってことでしょうか?
會川:どう転んでも嫌だからやってみようと。
土屋監督:耐えるために?
橋本:「第1章こういう私」「第2章こういう私」、みたいにしていました。私の場合は、テーマは部活にしたら部活に打ち込む、勉強にしたら勉強に打ち込む、恋愛にしたら恋愛に打ち込む、友達にしたら友達に打ち込む、みたいなのりでした。
土屋監督:日常を変えるためのタリウム少女なりの選択、変えるための選択をしたいですよね。
橋本:きっかけ、タイミングをうかがっているような感じです。今はジャンプしたい時期です。自分の気持ちだけではこうはいかないとは思うのですが、「外側の社会の状態がよくないから」とかでっかいことをいわれると、そうではないと思います。
橋本:周りの人だと思います。
會川:社会じゃなくて自分の方かなと思いますけど。
三浦:勝手なもので、自分が幸せで満足しているときはなんとなく社会もよく見えてくるのですが、自分がへこんいでるときは、社会のすべてが、「なんなんだよ」って、何もかも悪く見えてきてしまいます。気の持ちようが大きく関係しているのかなって思います。
(構成:駒井憲嗣)
映画『タリウム少女の毒殺日記』
渋谷アップリンクにて上映中
科学に異常な関心を示す≪タリウム少女≫は、蟻やハムスター、金魚など、様々な生物を観察・解剖し、その様子を動画日記としてYouTubeにアップすることが好きな高校生。彼女は動物だけでなく、アンチエイジングに明け暮れる母親までも実験対象とし、その母親に毒薬タリウムを少しずつ投与していく…。さらに彼女は、高校で壮絶なイジメにあう自分自身をも、一つの観察対象として冷徹なまなざしで観察していた。
「観察するぞ、観察するぞ…」
≪タリウム少女≫は、自らを取り囲む世界を飛び越えるために、新しい実験を始める。
監督・脚本・編集:土屋 豊(『新しい神様』、『PEEP "TV" SHOW』)
出演:倉持由香、渡辺真起子、古舘寛治、Takahashi
撮影:飯塚 諒
制作:太田信吾、岩淵弘樹
チーフ助監督: 江田剛士
エンディング曲・挿入歌:AA=
日本/2012年/カラー/HD/82分
配給:アップリンク/宣伝:Prima Stella/デザイン:TWELVE NINE
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▼『タリウム少女の毒殺日記』予告編