映画『アクト・オブ・キリング』より © Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012
60年代にインドネシアで行われた100万人規模の大虐殺。その実行者たちにカメラを向け、虐殺の模様を映画化するために彼らに殺人を演じさせたドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』が4月12日(土)よりロードショー。公開にあたり、3月25日にシネマート六本木で行われた特別試写会で、元インドネシア・スカルノ大統領夫人のデヴィ夫人、そしてジョシュア・オッペンハイマー監督が登壇した。
デヴィ夫人は1962年、当時のインドネシア大統領スカルノと結婚し、第三夫人となった。1965年9月30日に、後に「9.30 事件」と呼ばれる軍事クーデターが勃発。夫スカルノは失脚し大統領職を追われ、デヴィ夫人自身も命からがら亡命した。今作は、その「9.30 事件」によって起こった100万とも200万とも言われる虐殺を描いている。
試写会当日、映画評論家の町山智浩さんの司会により、デヴィ夫人は自らが体験したクーデターの現場の模様や、アメリカや日本が当時の政権を支持することでクーデターや虐殺に関与していたことを生々しく語った。
今回は、映画が映しだしている事件を間近に知るデヴィ夫人によるトークの全文、そしてジョシュア・オッペンハイマー監督が制作の経緯を語ったインタビューを掲載する。
デヴィ夫人によるトーク
「当時日本の佐藤首相はポケットマネー600万円を、
殺戮を繰り返していた人に資金として与えていた」
デヴィ夫人:スカルノ大統領は別に共産主義者ではありませんし、共産国とそんなに親しくしていたわけではありません。あの当時(この映画の背景となっている1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデター「9・30事件」)、アメリカとソ連のパワーが世界を牛耳っていた時に、スカルノ大統領は中立国として、アジアやアフリカ、ラテンアメリカの勢力を結集して第三勢力というものをつくろうと頑張っていた為に、ホワイトハウスから大変睨まれましておりました。太平洋にある国々でアメリカの基地を拒絶したのはスカルノ大統領だけです。それらのことがありまして、ペンタゴン(アメリカの国防総省)からスカルノ大統領は憎まれておりました。アメリカを敵に回すということはどういうことかというのは、皆さま私が説明しなくてもお分かりになっていただけるかと思います。
映画『アクト・オブ・キリング』の試写会に登壇したデヴィ夫人
1965年の10月1日未明にスカルノ大統領の護衛隊の一部が6人の将軍を殺害するという事件が起きてしまいました。(この事件は)その6人の将軍たちが、10月10日の建国の日にクーデターを起こそうとしているとして、その前にその将軍たちをとらえてしまおう、ということだったんですが、実際には、とらえただけではなく殺戮があったんです。建国の日には、大統領官邸の前にインドネシアの全ての武器、全兵隊が集まり、その前で立ってスピーチをする予定だったものですから、そこで暗殺をするというのは一番簡単なことだったわけなんです。エジプトのアンワル大統領(アンワル・アッ=サーダート)も軍隊の行進の最中に暗殺されたということは皆さまもご存知かと思いますが、そういったことが行われようとしていたということなんです。
7番目に偉かった将軍がスハルト将軍で、10月1日の朝早くに、インドネシアの放送局を占領しまして、「昨夜、共産党によるクーデターがあった」「将軍たちが殺害された」と言って、すぐに共産党のせいにしました。そして赤狩りと称するものを正当化して、国民の怒りを毎日毎日あおって、1965年の暮れから1966年、1967年にかけまして、100万人とも200万人ともいわれるインドネシアの人たち、共産党とされた人、ないしはまったく無関係のスカルノ信仰者であるというだけで罪を着せられて殺されたといった事件が起こりました。この度、この映画で初めてそれが事実であるということが証明されて、私は大変嬉しく思っておりまして、ジョシュア・オッペンハイマー監督には、その偉業を本当に心から心から感謝してやみません。何十年間と汚名をきたまんまでいたスカルノ大統領ですが、この映画で真実が世界的に広まる、ということにおいて、私は本当に嬉しくて、心より感謝をしております。
町山:クーデターが起こった時、どちらにおられましたか?
デヴィ夫人:私はジャカルタにおりました。大統領もジャカルタにおりました。(スハルト将軍は)大変頭の良い方で、それがクーデターだとなったというのは結果的なもののわけで、要するに、その当時のインドネシアの情勢を完全に彼が握ってしまったということなんですね。そして当時の空軍、海軍の指導者たちにも国民から疑いの眼を向けられるようにしたりしました(*スハルトは陸軍大臣兼陸軍参謀総長)。その当時のアメリカ、日本はスハルト将軍を支援しています。佐藤(栄作)首相の時代だったのですが、佐藤首相はご自分のポケットマネーを600万円、その当時の斉藤鎮男大使に渡して、その暴徒たち、殺戮を繰り返していた人に対して資金を与えているんですね。そういう方が後にノーベル平和賞を受けた、ということに、私は大変な憤慨をしております。
町山:事件が起こった時は、大統領官邸にいらっしゃったんですか?
デヴィ夫人:私はヤソオ宮殿におりました。
町山:戦車が出たり、大変な事態になっていたわけですよね?
デヴィ夫人:そうですね。もうホントに夜は……。あの時は誰が味方で誰が敵か、もう分からない状態で……。戦車の音がゴーッ、と響き渡っていて。私はその音で飛び起きていました。(何か起こった時には)窓を飛び降りて、庭を突っ切って、ヤソオ宮殿の裏にある川の中に身を沈めて、竹をもって日本の忍者みたいにあの冷たい川の中で何分くらいいられるのか、走って何分くらいでそこに辿り着けるか、そんなことを考えて、毎晩ズボンを履いて寝ていました。
町山:宮殿の中で身を潜めていたんですか?
デヴィ夫人:そうですね。私のところには護衛官はいましたけど、護衛官は8人ずつの交代制でおりまして、事件当時は30人~40人に増えましたけれども、その人たちがいつ裏切るかも分からないですし、その人たちが味方なのかスパイなのかも分からない状態でした。
町山:日本大使館に逃げ込んだり、ということは考えられませんでしたか?
デヴィ夫人:私自身が大使館の中に逃げ込むということはしませんでした。日本政府にご迷惑がかかると思いましたので。ただ、その当時私が持っておりました高価なものをお預けしました。そうしましたら、斉藤鎮男大使が私の預けたものを庭に放り出したという噂を聞きまして、その当時の大使のところにいらした料理人夫妻が、わたしが預けたものを全部私のところに届けにきてくれました。その後彼は、日本の外務省にとんでもない報告をしまして、その報告によって日本は、スハルト将軍応援のほうにまわったんです。この斉藤鎮男大使というのは、その当時のアメリカ大使と非常に親しくしておりました。このアメリカの大使は赴任する先々で内乱がおきたり、クーデターがおきたりする方で有名な大使だったんです。
「虐殺をしていた人間がそれを再現する、
その恐ろしさに身震いをした」
町山:その当時、スカルノ大統領は監禁された状態だったのですか?
デヴィ夫人:その時はまだ監禁されておりませんでしたが、その後、ヤソオ宮殿のほうに幽閉されて、家族とも会えない状態になりました。私は武装された人間たちに警護されていましたが、その警護はいつ敵になるか分からない、という不安がございました。
町山:虐殺が行われていたということを当時は知っていましたか?
デヴィ夫人:はい。PKI(Partai Komunis Indonesia/インドネシア共産党)というんですが、その当時のインドネシアの共産党の幹部たちは、言い訳もできない、そういうチャンスも何も与えられない、「自分たちは無実だ」とは言っていましたけれども、逃げるしか無いということで逃げまわりましたけれども、結局全員捕まって、虐殺されています。その内の一人で、ニョトという幹部がいたんですが、この方が全身を針金で縛られてその針金を引っ張られて亡くなったというニュースを見ていて、まさかそんなことがと思っていたんですが、この映画をみると、そういったことが(確かに)あったんだと……。
映画『アクト・オブ・キリング』の試写会にて、左より、デヴィ夫人、ジョシュア・オッペンハイマー監督、町山智浩さん
町山:そのシーンでてきますね。この映画を観たご感想はいかがでした?
デヴィ夫人:1966年を中心にインドネシアで大虐殺があって、(この映画では)メダンの周りの虐殺しか出てこないんですが、もうジャワ中、それからバリ、スワベシ、スマトラ、もう村から村へと、総なめに殺害されていました。その時にあれだけの人間が殺害されていたのに国連が全然動かなかったんです。国連は完全にアメリカの影響下にあったということがこれでよく分かると思うんですけれども、いずれにしましても、スカルノ大統領は第三勢力というものを作り上げようとした、アメリカに基地を与えなかった、そしてアジア・アフリカのリーダーとなっていたということで、アメリカにとってスカルノ大統領は目の上のたんこぶだったんですね。なので、彼はアメリカによって5回くらい暗殺を仕掛けられたんですが、幸いに神のご加護か、助かって来たわけですけれども。とにかくこれは(その虐殺を証明する)大変貴重な映画で、(映画を通して)初めて真実が世界に伝わるのではないかなと思います。
普通は殺人を犯した人間が、虐殺をしていた人間が、それを再現するという神経、これは非常に異常なことだと思うんですね。監督がそれを虐殺者にそれを演じさせるという、どのように話を持っていったのかは映画をご覧になれば分かりますけれども、最初この映画いったい何なのかしら?と分からなかったんですけれども、段々引きこまれてその恐ろしさに身震いをしました。
(3月25日、シネマート六本木にて)
オッペンハイマー監督インタビュー
「スタッフを匿名にしているのは、
いまだ、彼らの身に危険が及ぶかもしれないからです」
──どのような動機でこの作品を作ったのですか。
「この作品を撮る前、そもそもインドネシアに行ったのはヤシ油を採るヤシ農園の労働者たちが組合を作ろうとする様子を記録するためでした。スハルト政権後、ベルギーの会社に雇われた女性たちが、肝臓を痛めるような除草剤を使わされるなど過酷な労働環境にありましたが、組合を作ろうとするとパンチャシラ青年団(極右軍事集団)から脅迫され攻撃される、といったことがあり、そんな彼らの葛藤を記録するのが目的でした。アメリカの関与のレベルというのははっきりとはしていませんが、アメリカは少なくともインドネシア軍に死のリスト、多くはジャーナリストでしたが、新体制に反対する人々の名前を渡していたということは明らかですし、武器や資金を援助していたことも分かっています。その事実が、私がこの映画を作るモチベーションの一つになったことは間違いありません」
「この作品はもともと、虐殺の生存者たちと一緒に作り始めました。彼らがなぜ今も恐怖を感じているのか、加害者たちが未だに周りにいて、いつ同じことが起こってもおかしくない状況で生活するとはどういうことかを描こうとしていました。しかし撮影を始めた2003年、軍から脅迫を受け、制作をストップしなければならなくなりました。その時、生存した方々から、『加害者を取材してみてほしい』と頼まれました。危険かもしれないと思いましたが、実際に話を聞いてみると、彼らは恐ろしいディテールまでも楽しげに、時には家族の前で、笑顔で語りました。それはまるで、ホロコーストから40年後のドイツに足を運んだら、そこではまだナチスが権力をふるっていた、というような感覚でした。その撮影素材を生存者や人権団体に見せたところ、誰もが『撮影を続けてほしい。これは何かとても大事なものだ』と言いました。そして2年をかけて様々な加害者から話を聞き、今作に出演するギャングのアンワルは41人目に出逢った加害者でした。私は、被害者たちが恐怖を感じることなく自分たちの恐ろしい現実について話せる場となる映画を作りたい、という想いを持ちました」
映画『アクト・オブ・キリング』より © Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012
──撮影にあたってのスタッフの体制はどのようなものだったのでしょうか。
「スタッフの数はとても少なかったです。ギャングのアンワルとその仲間たちが、どのシーンを撮影するかといったことを議論しているあたりはなるべく地元の方々と一緒に作り上げてほしいと思いました。ですからパンチャシラ青年団の団員を助監督に雇い、国営テレビの昼ドラに関わっている現地のスタッフに参加してもらい、いくつかのシーンを演出してもらっています。しかし、核となるスタッフは5、6人でしたので、かなり大変なこともありました」
──多くのスタッフが匿名になっている理由は?
「匿名にしているのは、いまだ、彼らの身に危険が及ぶかもしれないからです。大学教授、記者、人権団体のリーダーでしたが、自分のキャリアを変えてまで、8年間という時間をこの作品のために費やしてくれました。それも、この国に本当の意味での変化が起こらない限りは自分の名前は明かせない、ということを知ってのことでした」
映画『アクト・オブ・キリング』より © Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012
──この作品が完成したことが、アンワルと仲間たち、スポーツ副大臣らにどのような影響があったでしょうか。
「もちろんこの作品の制作に参加することを通じて、アンワル自身にエモーショナルな影響がありました。そしてアンワルの相棒であるヘルマンについてはパンチャシラ青年団を辞め、また、唯一メダン市でこの『アクト・オブ・キリング』を公式に上映してくれました。しかしその他に大きな変化というものはありません。もちろん、アカデミー賞ノミネートをきっかけにインドネシア政府が初めて65年の虐殺は間違いであったと公式に認める、という変化はありました。大統領のスポークスマンが、この映画に出てくるような人々を嫌悪すると述べたのです。しかし、その言葉が元副大統領やパンチャシラ青年団のリーダーを断罪することになるのだと、彼が理解していたかどうかは分かりません。政府は時間をかけて和解を達成するつもりだと言っていますが、それはこれまでの見解とは180度違うものですから、その意味では変化と言えると思います。
ジャーナリストたちもこの問題についてオープンに語れるようになったものの、記事の中にパンチャシラ青年団という具体名は登場しません。語られるとすればSNSの中だけというのが現状です。そして様々な政治家たちも特にとがめられることなく政治活動を続けていますので、そういう意味での大きな政治的変化はまだ訪れていません。マスコミでプレマン、ギャングスター、政治との癒着などは勇気を持って取り上げられるようになりましたが、実は個人名はほとんど出てきません。これはおそらくそれぞれの政治家に繋がっているチンピラたちを恐れてのことだと思います」
「西洋諸国や日本を含む各国が責任を負うべきだ」
──参加した方々が、法律的な意味で危険にさらされているということはありますか?
「法律的な観点から言えば罪に問われることはありません。国連の方で、ユーゴスラビアでもカンボジアでも行われたような形で追求することはできるはずですが、それについては国際社会、例えばアメリカやイギリスが名乗り出る必要があるため、非常に難しい状況です。ただ個人的に思うのは、これは地域だけの問題ではなく、当時の虐殺やそれを行った政権というものを指示して来た西洋諸国らが責任を負うべきであり、それは日本も例外ではありません。私は日本のエキスパートではありませんが、虐殺当時政権を支援し、その後のスハルト政権を支持して来たわけですから、そういう意味では日本の関与というのもきちんと見つめる必要があるのではないかと思います」
──監督が出演者たちに演出をして、彼らにどのように人を殺めたのか仕掛けていったように思えます。途中からその仕組みがどんどん大掛かりになっていきますが、もともとそういう予定だったのでしょうか。
「彼らがコントロールしたのは、自分たちがどういうシーンを作りたいか、そしてそれをどのように作るのか、という部分です。そういう場面でも、質問があればどんどんしましたが演出という意味では、自分はとくに何もしていません。思った通りに、自分たちの殺人を演じてみてください、とお願いしただけです。作品が彼らのもののように感じられるのは、アンワルたちに当事者意識があったからだと思います。アカデミー賞にノミネートされたときもアンワルは受賞してほしいと言っていました。それは虚栄心からではなく、自分の物語を人々に知ってほしいという想いがあったからです。初めてこの映画を観たあと、彼は僕に『自分であるということがどういうことか、これでみんなに分かってもらえる』と言い、とてもエモーショナルな反応を示していました」
「仕組みがどんどん大きくなっていった、ということに関しては、これは撮影方法によるものです。一度何かのシーンを撮る、撮り終えたらそれをアンワルに見せる、アンワルはそれを観て、おそらく自分が直視したくないものから逃げるために、『この演技は良くない、服装が良くない』と、新しいことを提案し始め、それをまた映像化する。それをまた彼に見せてフィードバックをもらう。そして撮影する、という流れの中でどんどん大掛かりになっていき、最終的にはあの滝のシーンに行き着いたわけです」
映画『アクト・オブ・キリング』より © Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012
──登場人物たちは、この作品を観てどのような反応を示しましたか?
「アンワルには作品が出来上がったら観てほしいとずっと伝えていましたが、彼は観ることに怖じけづいてしまいました。トロント映画祭の後、彼をジャカルタにあるインターネット環境の良いホテルに連れていってもらい、スカイプを通して彼のための試写を行いました。映画を観た彼はとてもエモーショナルになり、当時の記憶が戻って来たのか、あるいはショックを受けたのか、作品が終了したあとは20分間沈黙していました。その後、バスルームへ行って戻って来た彼は『自分であることがどういうことかが分かる映画だ』と言いました。そしてまたしばらく沈黙してから、『自分のしたことをただ描くのではなく、そのことの意味が描かれていてとてもホッとしている』と言っていました。痛みを伴う経験ではあったけれど、彼の中では少し安堵する何かが感じられたのではないかと思います。その様子を見ていた私は、まるで彼の闇を一緒に見ているようでした。その闇は、おそらくみなさんも見ているものだと思います」
「『アクト・オブ・キリング』は人間であることの意味という難しい問いを投げ掛けます。過去を持つということはどういうことか?物語を語ることを通じて我々はどんな現実を作ろうとするのか?そして、最も重要なことは、我々は最も苦く、消化しがたい事実から逃がれるために、物語を利用しているのではないか?という問いです」
(オフィシャル・インタビューより)
ジョシュア・オッペンハイマー プロフィール
1974年、アメリカ、テキサス生まれ。ハーバード大学とロンドン芸術大学に学ぶ。10年以上政治的な暴力と想像力との関係を研究するため、民兵や暗殺部隊、そしてその犠牲者たちを取材してきた。これまでの作品に、シカゴ映画祭ゴールド・ヒューゴ受賞の『THE ENTIRE HISTORY OF THE LOUISIANA PURCHASE』(1998年)など。イギリス芸術・人権研究評議会のジェノサイド・アンド・ジャンル・プロジェクトの上級研究員で、これらのテーマに関する書籍を広く出版している。現在はデンマーク在住。
映画『アクト・オブ・キリング』より © Final Cut for Real Aps, Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD, 2012
映画『アクト・オブ・キリング』
4月12日(土)、シアター・イメージフォーラム他にて全国順次公開
60年代のインドネシアで密かに行われた100万人規模の大虐殺。その実行者たちは、驚くべきことに、いまも“国民的英雄”として楽しげに暮らしている。映画作家ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更。彼らが嬉々として過去の行為を再現して見せたのをきっかけに、「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」と持ちかけてみた。まるで映画スター気取りで、身振り手振りで殺人の様子を詳細に演じてみせる男たち。しかし、その再演は、彼らにある変化をもたらしていく…。
製作総指揮:エロール・モリス、ヴェルナー・ヘルツォーク、アンドレ・シンガー
製作・監督:ジョシュア・オッペンハイマー
共同監督:クリスティン・シン、匿名希望
スペシャル・サンクス:ドゥシャン・マカヴェイエフ
2012年/デンマーク・ノルウェー・イギリス/インドネシア語/121分/カラー/5.1ch/ビスタ/DCP
原題:THE ACT OF KILLING
配給:トランスフォーマー
宣伝協力:ムヴィオラ
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