骰子の眼

cinema

2014-07-25 11:41


62年ポーランドの光と影、過去を探す旅に出た少女『イーダ』

パヴェウ・パヴリコフスキ監督が描く、ホロコースト、共産主義の圧政、時代の波に翻弄された一族最後のふたり
62年ポーランドの光と影、過去を探す旅に出た少女『イーダ』
(c)Phoenix Film Investments and Opus Film

共産主義体制のポーランドを出てヨーロッパ各国で映画を撮り続けてきたパヴェウ・パヴリコフスキ監督が、初めて母国で撮影した映画『イーダ』が2014年8月2日(土)より公開される。

1962年のポーランド。戦争孤児として修道院で育てられた18歳の見習い尼僧アンナは、修道女になる前に唯一の肉親である叔母に会いに行くことをすすめられる。はじめて会った叔母ヴァンダは、アンナの両親はすでに亡くなっており、ユダヤ人であること、そしてアンナの本当の名前は"イーダ"であることを告げ、今まで会わなかった理由を「お互いにとって幸せじゃないから」と言い放つ。

叔母ヴァンダの職業は検察官。スターリンの時代に、ポーランド人によるユダヤ人殺害事件を裁く立場にあった彼女は、スターリン死後「雪解けの時代」にあった62年ポーランドにおいて、生きる指針を失い生活は荒れていた。そんな折、目の前に彼女にとっての"過去"が現れる。

少女が旅に出て大人の階段をのぼる。親、肉親という存在を知らず修道院の中で育ったイーダは、叔母ヴァンダをとおして自由の快楽、現実の絶望におそらく初めて出会う。美しい光と影のコントラストを強調したモノクロの画は、少女の美しさを強調している。白い肌とベールのひだ、節目がちな目の瞬き、とくにベールをとり髪をほどくシーンは印象的であった。

webDICEでは、ポーランドでカトリック教徒の母、ユダヤ教の父の元に産まれるも、父親はユダヤ教であることを人に一切話さなかったというパヴェウ・パヴリコフスキ監督のインタビューを掲載する。




パヴェウ・パヴリコフスキ監督インタビュー

──『イーダ』はどのようにして生まれたのですか?

『イーダ』の発想源は、複数あります。そのなかでとりわけ興味深い発想源がいくつかあるのですが、その種のものに限ってさほど意識することなく浮上してきたように思います。たとえば私は秘密や矛盾をたっぷり抱えた一族に生まれ、これまでの人生のほとんどをなんらかの亡命めいた状態で過ごしてきました。アイデンティティ、家族、血統、信仰、帰属意識、歴史といった問題に、常にさらされてきたわけです。

映画『イーダ』
パヴェウ・パヴリコフスキ監督

自分がユダヤ人であることを悟るカトリックの尼僧の話を、何年もの間ああでもないこうでもないともてあそんでいました。当初は、ストーリーの時代背景を1968年に設定していたのです。ポーランドで学生による抗議行動が生じ、共産党(ポーランド統一労働者党)が反ユダヤ的な排斥運動の後押しをした(いわゆる「三月事件」として知られる)年です。もともと考えていたストーリーの主人公はイーダよりやや年長の尼僧でした。そのほか、困難な問題を抱えた司祭や、公安省の職員も登場していました。そして全体的に、当時の政治にもっとどっぷりと浸った内容だったのです。当初の脚本は、自分の好みに反して少々図式的にすぎるうえ、スリラー志向も強すぎ、また筋が込み入りすぎてもいたので、しばらくの間『イーダ』は棚上げにして『イリュージョン』(2011)を作るためにパリへ行ってしまいました。ですから当時はまた別の土地にいたわけです。

再び『イーダ』に取り組み始めたとき、自分がこの映画をどのようなものにしたいのかに関し、以前よりずっと明確なアイディアを持っていました。共同で脚本を執筆したレベッカ・レンキェヴィチと一緒に、余計なものを全部取り除いて筋をもっと単純化し、登場人物を含蓄に富んだものにすると共に、彼らをストーリー推進のための駒として扱うことを極力控えました。イーダはもっと若く、もっとうぶで、もっと"白紙状態"の娘になったし、人生の瀬戸際にいるひとりの若い娘になったのです。それに、われわれはストーリーの時代背景を1962年に変更しました。ポーランドにおいては、1968年よりも明確な特徴のない時代です。けれども1962年は、私がいちばん活き活きと記憶している時代でもあります。私自身が子どもの頃──大人の世界で生じていることはわからないけれども、映像や音に対してはずっと敏感だった頃──に、いろいろな印象を抱いた時代なのです。映画のなかに登場するいくつかのショットは、無意識のうちに私の家族アルバムに貼ってあった写真を着想源とした可能性もありますね。

映画『イーダ』
イーダとヴァンダはふたりで旅に出る

──ヴァンダという人物はどうやって着想なさったのですか?

1980年代初頭にオックスフォード大学で大学院課程の学位を取得しようとしているときに、親切な経済学者にして修正派マルクス主義者で1968年にポーランドを離れたヴウォジミェシュ・ブルス教授(1921年~ 2007年)と親しくなりました。ブルス教授の奥さんのヘレナが私は大好きだった。煙草を吸い、酒を飲み、冗談を言い、びっくりするような話をいろいろとしてくれる女性でした。彼女は馬鹿者どもを容赦することはなかった。けれども温かくて寛大な女性で、私はヘレナのそういうところに心を打たれました。

オックスフォードを卒業してからはブルス夫妻と交流することもなくなりましたが、10年ほど後になって、BBCニュースで次のような報道がなされているのを聞きました。ポーランド政府が、非人道的犯罪への加担を理由に、オックスフォード在住のヘレナ・ブルス=ヴォリンスカなる人物の引き渡しを要請している、と。あの素敵な老婦人が、20代後半の頃にスターリン主義の検察官だったことが明らかになったのです。とりわけ彼女は、世論操作のためにおこなわれたある裁判で、完全に無実だったレジスタンスの真の英雄"ニル"フィエルドルフ(国内軍副司令官エミル・アウグスト・フィエルドルフ[1895年~1953年]のこと)の処刑を工作しました。

このことを知ったとき、少しばかりショックを受けましたね。自分が見知っていた思いやりのある皮肉屋の女性と、冷酷で狂信的でスターリン主義者の死刑執行人とを一致させることができなかったのです。このパラドックスは、何年もの間脳裏を去ることがありませんでした。ヘレナに関する映画の脚本を書こうとすらしましたが、これほどの矛盾を抱えた人物は、私ごときの想像を絶していた。イーダの物語にヘレナ(を思わせる人物ヴァンダ)を導入することで、イーダという人物を活気づける一助となりました。逆に言えば、人を死に追いやった元狂信者をイーダの脇に置くことが、この(ヴァンダという)人物の輪郭をくっきりしたものにし、若き尼僧の旅が孕む意味を明確なものにする助けとなってくれたのです。

映画『イーダ』
旅のなかで、ヴァンダの過去も明らかになっていく

──この映画においては、音楽が大きな役割を担っているように思われます。

そう、当初からポップソングがカギとなっていました。子どもの頃に、避けがたく記憶に刷り込まれましたからね。ポップソングは風景を彩ってくれる。ジョン・コルトレーンやら何やらは、大人になってから聴き始めたものです。ちなみに、1950年代末期から1960年代初頭にかけては、ポーランド・ジャズの黄金時代でした。本物の爆発が起こったのです。クシシュトフ・コメダ、ズビグニェフ・ナミスウォフスキ、トマシュ・スタンコ、ヤン・ヴルブレフスキ……イーダの物語を語ることに加えて、ポーランドが喚起するあるイメージ、自分が大切に思っているイメージを呼び覚ましたいと思ったのです。わが祖国は1960年代初頭においては、陰鬱で重苦しく、身動きのとれない状態だったのかもしれない。けれどもいくつかの点では、現在のポーランドよりも"クール"でオリジナルだったのです。それにどういうわけか、世界と共鳴し合う普遍性をもっと備えてもいました。

ポーランド人の多くが『イーダ』に不満を抱くでしょうね。われわれの映画に込められている美や愛情に気づかず、憂鬱や田舎者や醜悪さに焦点を当てることでポーランドのイメージを傷つけたと、私を非難するポーランド人が数多くいるに違いありません……それから、ユダヤ人一家を殺害したポーランド人農夫の問題がある……きっと面倒なことが起こるに違いない。他方では、ユダヤ系を出自とするスターリン主義国家の検察官も登場します。そのおかげで、私は別の角度からも非難されるかもしれない。それでも私は、『イーダ』がありのままに理解されるほどに、特別でありながらもわかりやすい映画であればいいなと思っています。

映画『イーダ』
旅先で出会った若いサキソフォン奏者の青年リス

──イーダ役はどのようにして配役なさったのですか?

若手女優や演劇を学ぶ女学生のなかから配役しようと、ポーランド中いたるところを探しまわった末に、完全な素人に演じさせることに決めました。演技経験が一度もなく、演じたいとすら思っていない女の子──現在ではなかなかお目にかかれないタイプです。時間切れになりそうななか、私が死にもの狂いになって女優探しをしていることを知っていた友人の女性監督マウゴジャタ・シュモフスカが、ワルシャワのカフェでアガタ・チュシェブホフスカのことを目にしました。当時私はパリにいたのですが、マウゴジャタはその場で電話をくれましてね。それで、アガタをiPhoneで密かに撮影して送ってくれないかと頼んだわけです。見たところでは、イーダ役にはまるで似つかわしくない娘だった。むやみに飾り立てたヘアスタイル、古臭い服、ウルトラクールな物腰の、人目をひく"ヒッピー"だったのです。尼僧など演じられそうになかった。けれども彼女の風貌を面白いと思ったし、私はなんとかしてイーダ役の演じ手を見つけようと本当に必死になっていましたからね。

映画『イーダ』
イーダ役のアガタ・クレシャは、今後女優としての活動を続ける気はないと語っている

アガタは戦闘的なフェミニストであるうえ、神というものに懐疑的で、ポーランドにおける教会の存在を頭から軽視していることがわかりました。オーディション中に、化粧やヘアスタイルや"ヒッピー"的な装いを取りさって、アガタのことをもっとよく見てみたのです。彼女こそ、まさしくイーダでした。アガタにはどこか時代を超えたところがあり、感動的なまでに真正だった。あたかも現在のメディアや一般的ナルシシズムとは無縁の存在であるかのようだったのです。彼女は真面目な子どものような面立ちをしているけれども、力強さや穏やかな知性を身にまとってもいる。製作者や出資者のなかには、演技経験がなく女優になりたいとすら思っていない人間を起用することに、強い不信感を抱く者もいました。彼らは撮影開始前にも撮影中にも、懸念のメールを送って寄越しましたが、最終的にアガタ起用のリスクは完全な杞憂に終わったのです。今となっては、イーダ役をほかの誰かが演じることなど考えられません。アガタは女優経験を楽しんでもいましたが、彼女が女優よりもむしろ監督を志望していることはかなりはっきりしています。

ヴァンダ役を演じたアガタ・クレシャも、稀に見る強さと誠実さを備えた女性でした。けれどもほかの点では、彼女は若いアガタの対極でした。とてつもなく努力して徹底的に演技の訓練を受けた、自分の職業に全身全霊で打ち込む本物の名人だったのです。頭の回転が速く、葛藤を抱えていて、躁病的で、メランコリックなヴァンダを演じるために、彼女は最大限の努力をしなければならなかった。集中し、抑制し、技巧を誇示することを避けながらね。バランスをとるのが難しかったわけです。

映画『イーダ』
青年リスとイーダ

若いサキソフォン奏者のリス役には、実際にサキソフォンを演奏することができて、なおかつ1960年代の人間のように見える俳優を起用したかった。今となっては、容易なことではありませんが。概して若手男性俳優というものは、にやけた色男か勇ましくて凶悪な奴かのどちらかに二分されがちです。男性的でありながら感受性が鋭く、聡明で機知に富み、かつ魅力的でもある若い男を見つけるのは難しい。ダヴィド・オグロドニクは、これらすべてを備えていた。なんといっても、こいつは本物だなと感じさせてくれたのです。彼は二日酔いでキャスティングの集まりに姿をあらわしました。何かの賞をもらって、一晩中そのお祝いをしていたのです。ダヴィドはサックスを持っていませんでしたが、友人から借りたクラリネットを携えてやって来ました。ダヴィドが(ふたつに分割されていた)クラリネットをねじってつなげようとする様子や、ポケットのなかで携帯電話が鳴り出したときに彼が狼狽する様子には、どこか心を打つものがあった。はじめのうち、彼は携帯電話を見つけることができませんでした。次いで使い古した携帯を取り出すと、友人にこれからオーディションを受けるんだと説明していましたね……ダヴィドをアガタ・チュシェブホフスカに引き合わせてみました。ふたりは会話をし、ダンスをして、一緒にいることを楽しんでいましたよ。




パヴェウ・パヴリコフスキ Paweł Pawlikowski

1957 年、ワルシャワ生まれ。14 歳の頃に共産主義体制のポーランドを出てまずドイツ、次いでイタリアに移り住み、最終的に英国に定住。1980 年代末期から1990 年代にかけて、抒情と皮肉がないまぜとなった独特の記録映画を数本監督し、世界中で高い評価を受ける。そのなかには以下のような作品がある。アルコール依存症のロシア人カルト作家ヴェネディクト・エロフェーエフ(1938 年~1990 年)に取材したテレビ放映用作品『From Moscow to Pietushki』(1991、未)。サンクトペテルブルクの路面電車の運転手を務めるドストエフスキーの曾孫ディミトリが、1862 年に曽祖父がおこなった西欧旅行の足跡を辿る悲喜劇的なロード・ムーヴィー『Dostoevsky's Travels』(1991、未)。人類学的アプローチを採用し、言葉よりは映像の力に比重を置いて、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の只中にあるサラエヴォで撮影された作品『Serbian Epics』(1992、未)。ロシア自由民主党党首で右翼のユダヤ系ロシア人ウラジーミル・ジリノフスキー(1946 年~)に取材したテレビ放映用作品『Tripping with Zhirinovsky』(1994、未)。1998年に中編映画『Twockers』(未)の脚本と監督をイアン・ダンカンと共同で手がけ、初めてフィクション映画の世界に足を踏み入れる。これは、ヨークシャー在住の十代の浮浪児が経験するロマンスを描いた作品である。また同年、初の長編劇映画『¬eStringer』(未)も発表。こちらはパヴリコフスキの単独監督作。主人公は、西側の通信社に売り込み可能な映像素材を求め、ヴィデオカメラを携えてモスクワの街なかをさまようロシア人青年。彼とマスコミ業界で活躍する英国人女性との恋を描いたロマンスである。その後も、以下の長編劇映画を主に英国で監督している。一人息子を連れてロンドンを訪れたロシア人女性が見舞われる災難を描いた英国映画『Last Resort』(2000、未、2001 年度英国映画テレビ芸術アカデミー[BAFTA]賞および2000 年度エディンバラ国際映画祭最優秀新作英国長編映画賞受賞)。ヘレン・クロスの同名小説に基づき、階級差のある対照的な二人の若い女性(ナタリー・プレスとエミリー・ブラントが演じている)を描いた『マイ・サマー・オブ・ラブ』(2004、DVD 発売のみ、2005 年度英国映画テレビ芸術アカデミー[BAFTA]賞アレクサンダー・コルダ賞(最優秀英国映画賞)および2004 年度エディンバラ国際映画祭最優秀新作英国長編映画賞受賞)。ダグラス・ケネディの同名小説に基づく、離婚してパリに移住したアメリカ人作家(イーサン・ホーク)を主人公とするスリラー『イリュージョン』(2011、DVD 発売のみ)。2004 年から2007 年にかけては、オックスフォード・ブルックス大学の特別研究員となる。母語ポーランド語に加え、英・仏・独・伊・露語を流暢に話す。最新作は『イーダ』(2013)。現在、監督作として三本の企画─それぞれ英語、ポーランド語、グルジアおよびロシア語で撮られる予定─を温めている。




映画『イーダ』
2014年8月2日(土)より渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開

2013年/ポーランド・デンマーク/80分/モノクロ
監督・脚本:パヴェウ・パヴリコフスキ
出演:アガタ・クレシャ、アガタ・チュシェホフスカ
配給:マーメイドフィルム
宣伝:VALERIA
配給協力:コピアポア・フィルム
後援:駐日ポーランド大使館、ポーランド広報文化センター
公式サイト
(c)Phoenix Film Investments and Opus Film


映画『イーダ』

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