骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2015-07-17 17:32


日本人が捉えたチベット人の非暴力の闘い、後を絶たない“焼身抗議”とは―『ルンタ』

『蟻の兵隊』池谷薫監督が「ダライ・ラマの建築士」中原一博氏を通して紐解く
日本人が捉えたチベット人の非暴力の闘い、後を絶たない“焼身抗議”とは―『ルンタ』
映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015

チベット亡命政府の数々の建築物設計を手がけ、故郷を失ったチベット人の支援や彼らの闘いの発信をし続けている人物・中原一博さんの姿を通してチベット人の非暴力の闘いを描くドキュメンタリー『ルンタ』が7月18日(土)より公開される。

チベットでは、中国の圧政に対して自らに火を放ち抵抗を示す“焼身抗議”が後を絶たず、現在も多くの命が失われている。チベットの亡命政府のあるダラムサラに住む中原一博さんはこの“焼身抗議”について自身のブログ「チベットNOW@ルンタ」で発信し続けている。今作を手がけた池谷薫監督は、チベット人の支援を実行し彼らの多くの苦しみを見続けてきた中原さんの活動を追い、ダラムサラのチベットの人々へインタビューを行うことで、チベットの人々が“焼身抗議”に込めたメッセージとチベットの現実を捉えようと試みている。映画のタイトルになっているルンタとは「風の馬」という意味で、天を翔け、人々の願いを仏や神々のもとに届けると信じられている、チベットの人々のシンボル。そのルンタという言葉に象徴される、温和でおおらかで、非暴力の姿勢を貫くチベットの人々の心の一端を垣間見ることのできるドキュメンタリーだ。

今回は池谷薫監督が製作の経緯を語ったインタビューを掲載する。

この人たちの優しさはいったいどこから来るのだろう

──まず、池谷監督が『ルンタ』を撮ることになったきっかけをお願いします。

もう30年以上も前になりますが、北インドのラダックを旅行中、重い高山病にかかってしまいました。そのときチベット人のある男性に助けてもらったのです。彼の家に運び込まれ、たくさん水を飲むように勧められ、三度の食事を与えられました。見も知らぬ異国の旅人をまるで家族のように温かく迎えてくれたのです。以来、この人たちの優しさはいったいどこから来るのだろうと、ずっと気になる存在になりました。

映画『ルンタ』池谷薫監督
映画『ルンタ』池谷薫監督

そして5年後の1989年、ダライ・ラマ法王がノーベル平和賞を受賞したときに、法王へのインタビューと亡命チベット人の暮らしを1時間のテレビドキュメンタリーにまとめました。その後もチベット問題を継続的に撮ろうと考えていましたが、どうやってもテレビでは企画が通りません。映画に転身した後は3年続けてチベットに通い構想を練ったのですが、今度は別の困難が付きまといました。もし政治的なメッセージをもつ映画をつくれば、それに関わったチベット人たちが重い処罰を受けることになるのです。

その間、チベットを取り巻く状況は悪化の一途をたどり、2009年からは焼身抗議が始まりました。もう待ったなしの状態です。そんなとき思い浮かべたのが中原一博さんのことでした。実は、中原さんには89年の番組にも出演してもらっています。かつての「ダライ・ラマの建築家」は今度はブロガーとなって連日のように焼身抗議のもようを発信しています。ダラムサラの自宅でひとり悲しみと向き合う中原さんの気持ちを思うと胸がつぶれるような気がしました。そして、中原さんと一緒に映画をつくろう。中原さんと一緒にチベットを旅しようと決めたのです。

──契機となったTBSのドキュメンタリーの取材のときには、ダライ・ラマ14世について、そしてチベットの人々についてどのように感じられていましたか。

ダライ・ラマ法王は本当に気さくな方で、いつも冗談を言って僕らを和ませてくれました。驚いたのはインタビューが終わったあと、照明用のケーブルを法王自らが片付けはじめたのです。「こんなの好きなのよ」とか言って。その一方、法話の中で、それを話すと必ず法王が泣いてしまわれる説話があります。慈悲についての教えなのですが、生きとし生けるものすべての苦しみが存在する限り、自分も存在して、その苦しみを救うという。そのお話をされると決まって法王は泣いてしまわれます。すると、それを聞いているチベット人たちもみんな泣いてしまうのです。亡命チベット人たちは明るく陽気なのですが、取材した1989年当時は、まだ多くの家族がバラックに住んでいました。ダラムサラはあくまでも仮の住まいで、いつかチベットへ帰れると思っていたのですね。あれから26年が起ち、バラックはほとんどなくなりましたが、それは帰る望みが薄れたことを意味するわけですから、本当に悲しいことだと思います。

映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015
映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015

──チベットをテーマにした作品はドキュメンタリー、フィクションと多数ありますが、参考にした作品や影響を受けた作品はありますか。

チベット人監督のペマ・ツェテンがつくった『オールド・ドッグ』という劇映画あります。2011年の東京フィルメックスでグランプリを受賞していますが、伝統的な遊牧民の暮らしに訪れた変化を、ひとりの老人と彼の愛犬との関係性から捉えた秀作です。この作品には圧倒的な力で新たな価値観が闖入してきたとき、チベット独自の文化は耐えきれるのかという今日的な問題が隠されていました。僕はこの作品を観たとき、ついにチベットにもこのような作家が誕生したのかと衝撃を受けました。実は、このころ僕はチベットをフィクションで描こうとしていたのですが、こんな優れた作家がチベットにいるなら、僕がフィクションで描く必要はどこにもありません。そのかわり政治状況のため彼らが絶対に撮れないドキュメンタリーでチベット問題に真正面から挑もうと腹をくくりました。

中原さんは「愛の大きい人」

──今作は、中原さんの人柄そして信念を通してチベットを描くことで、チベットの人々の心をより親身に感じられる仕上がりになっていると思います。中原さんという人物に池谷監督が惹かれた理由を、あらためて教えてください。

本人は照れるでしょうけど、一言でいえば愛の大きい人なんですよ。中原さんがチベット人を助けようと思ったきっかけは、精神を病んだある元尼僧との出会いなのですが、彼女はチベットでデモをやって捕まり、監獄でひどい拷問を受けたそうです。そのトラウマからインドに逃れてからも突然狂ったように泣き叫ぶことがあったのですね。それを間近で見た中原さんは助けることを決心したと言います。その決心のもつ力に僕は魅かれたのかもしれません。

映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015
映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015

──中原さんへの撮影を行うにあたって、どのように中原さんの言葉を引き出すか、取材やインタビューの方法など、こころがけていたことはありますか。

はじめ中原さんを口説いたとき、自分はそのような器ではないと断られました。そのとき僕は「焼身抗議から逃げない映画をつくるつもりだ」と言いました。すると中原さんは「それなら断る理由がない」と言って引き受けてくれたのです。僕らドキュメンタリストはよく撮る側と撮られる側が“共犯関係”を結ぶと言いますが、僕と中原さんの間には、撮影に入る前から共犯関係が成立していたのではないでしょうか。中原さんはああ見えて寂しがり屋なんですよ。いかつい顔をしていますが、人を笑わすことが大好きでとてもチャーミングな人。そんな魅力をあますことなく伝えられたらいいなと思いました。

映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015
映画『ルンタ』より、中原一博さん © Ren Universe 2015

そうそう、中原さんは仏教の勉強を熱心にされた人でもあるんですよ。それが高じて一時は僧侶になろうとしたこともあったとか。ダライ・ラマ法王に相談すると「家族もいるのだからやめろ」と言われたそうです。そのかわり、俗人でも学べる僧院を紹介してくれたらしく、中原さんはそこで6年間学びます。僕が中原さんを本物だなと思うのは、彼が仏教と真剣に向き合った人だからでしょうね。ただし、『ルンタ』の真の主役はあくまでもチベット人です。中原さんはその語り部を見事に務めてくれました。なんといっても30年もチベット人社会の中で生きた人ですからね。中原さんと一緒に映画を作ろうと思ったとき、僕はこの人の「言葉」と「身体」を通してでしか、非暴力の闘いをつづけるチベット人の心には近づけないと思いました。映画が完成したいま、その思いは一層強くなっています。

映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015
映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015

チベットの現実から目を背けてはならない

──『ルンタ』は、前半はダラムサラに住む中原さんの活動の変遷と彼のチベットの人々へのインタビューで構成されていますが、後半からは中原さんが再度チベットに赴き、焼身抗議を行った現場を訪ねるという構成になっています。そして、最後に描かれる焼身した方々の言葉に重みを感じます。こうした構成は制作当初から考えていらっしゃったのでしょうか。

前半と後半がまるで違う映画をつくりたいと思っていました。実はチベット本土に撮影に行く前に決めていたことがあります。チベットへ行ったらチベット人に政治的な話は聞かないと。前にも言ったように、もし僕らが拘束されたら、そのような証言をしたチベット人が重い処罰を受けることになるからです。僕らの映画のために誰ひとりチベット人を傷つけてはなりません。そのため前半のダラムサラでは元政治犯らの証言を集めたのですが、そのとき僕はいい意味で裏切られました。つらく重い話を延々と聞くことになると思っていたのに、終わってみると清々しささえ覚えたのです。

映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015
映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015

デモをやって電気ショックの拷問を受けた元尼僧は、「自ら進んで行ったのだから後悔なんてしていない。むしろ看守たちと互角に闘えた」と笑顔で答えるし、24年間も監獄に入れられた老人は、なぜ耐えられたのかという問いに、「中国にひどい目にあわされたのではなく、自らが積んだカルマ(業)のせいだ」と仏教の教えを口にしました。そして「自分が受けた苦しみが他人が受けることのないように願うのだ」と。これらを聞いたとき、チベットで撮るべきものが見えた気がしました。彼らが命をかけて守ろうとしているものを撮る。それはチベット人としてのアイデンティティだったり、生活だったり、文化だったり、そして故郷なのではないかと。ルンタが風にはためき、その音とともに馬が走り、チベットの大草原が現れたとき、そこからは別の世界が始まっていくのです。

映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015
映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015

──監督は今作のなかで中原さんに「チベット人にとって焼身とは、仏教とは」と問いかけています。今作を完成させて、監督は、チベットの人々にとって焼身抗議の重要性はどこにあると感じられますか。

僕は焼身抗議の是非を問うつもりはありません。当たり前のことですが、もうこれ以上焼身者が出てほしくないと強く願っています。ただ、この同じ地球上に暮らす人々の中に、このような手段でしか抵抗の意思を示すことができない人たちがいることを知ってほしいのです。チベットの現実から目を背けてはならない。知らないことは罪なのではないでしょうか。焼身者は150名近くに上りますが、数ではありません。彼らがどんなところに生まれ育ち、何を考え生きたのか。そのひとりひとりの人生に思いを馳せなければ、焼身抗議という奥深い現実を理解することはできません。中原さんと僕はそれを探しにチベットに行ったのです。

──作中で中原さんは、活動を続ける理由を「隠されている現実を見せるため」とお話されていました。ドキュメンタリーという手法にこだわり続けてきた監督にとって、ドキュメンタリーの社会における意義はどこにあると感じますか。また、今作で描かれるチベットと、日本の社会の現状とを照らしあわせて思うところはありますか。

ドキュメンタリーであれフィクションであれ、映画は普遍性も持たなければなりません。『延安の娘』『蟻の兵隊』『先祖になる』と、文革や戦争や震災といった重いテーマを扱ってきましたが、そのようなテーマは入口でしかありません。むしろ本当のテーマを探すために映画を撮っていると言ったらいいでしょうか。それは『ルンタ』でも同じです。本作ではチベットの焼身抗議と向き合いましたが、映画が完成したいま僕がぜひここを観てほしいと思うのは、徹底した非暴力の姿勢を貫くチベット人の気高い心です。世界中に暴力が蔓延し、その解決の糸口さえ見出せない今、「利他」や「慈悲」といった思いやりの気持ちをもって他者と接するチベット人の生き方に、現代を生きる大切なヒントが隠されているような気がしてなりません。

(構成:駒井憲嗣)



池谷薫 プロフィール

1958年、東京生まれ。同志社大学卒業後、数多くのテレビ・ドキュメンタリーを演出する。初の劇場公開作品となった『延安の娘』(2002年)は、文化大革命に翻弄された父娘の再会を描き、ベルリン国際映画祭など世界30数カ国で絶賛され、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー映画賞、ワン・ワールド国際人権映画祭ヴァーツラフ・ハベル特別賞ほか多数受賞。2作目の『蟻の兵隊』(2005年)は中国残留日本兵の悲劇を描き、記録的なロングランヒットとなる。3作目の『先祖になる』(2012年)は、東日本大震災で息子を失った木こりの老人が家を再建するまでを追い、ベルリン国際映画祭エキュメニカル賞特別賞、香港国際映画祭ファイアーバード賞(グランプリ)、文化庁映画賞大賞、日本カトリック映画賞を受賞。2008年から2013年まで立教大学現代心理学部映像身体学科の特任教授を務め、卒業制作としてプロデュースした『ちづる』(2011年・赤崎正和監督)は全国規模の劇場公開を果たす。著書に『蟻の兵隊 日本兵2600人 山西省残留の真相』(2007年・新潮社)、『人間を撮る ドキュメンタリーがうまれる瞬間』(2008年・平凡社・日本エッセイスト・クラブ賞受賞)など。




映画『ルンタ』
7月18日(土)より渋谷シアター・イメージフォーラム他全国にて公開

映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015
映画『ルンタ』より © Ren Universe 2015

監督:池谷薫
製作:権洋子
撮影:福居正治
音響構成:渡辺丈彦
編集:新津伊織
2015年/日本/カラ―/DCP/111分/16:9/5.1ch/日本語・チベット語
製作・配給:蓮ユニバース
宣伝:VALERIA
© Ren Universe 2015

公式サイト:http://lung-ta.net/
公式Facebook:https://www.facebook.com/eiga.lungta
公式Twitter:https://twitter.com/eiga_lungta


▼映画『ルンタ』予告編

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