骰子の眼

cinema

東京都 新宿区

2015-11-20 17:25


80sハリウッド、低予算映画の裏側!ゴーラン&グローバス『キャノンフィルムズ爆走風雲録』

イスラエル出身のプロデューサー従兄弟コンビの知られざる素顔を監督が語る
80sハリウッド、低予算映画の裏側!ゴーラン&グローバス『キャノンフィルムズ爆走風雲録』
映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』より

80年代にイスラエルからアメリカに進出、『暴走機関車』『デルタ・フォース』『スペース・バンパイア』などの作品でハリウッドに旋風を巻き起こしたプロデューサー、メナヘム・ゴーランとヨーラム・グローバスの足取りを描くドキュメンタリー『キャノンフィルムズ爆走風雲録』が11月21日(土)よりシネマート新宿にて1週間限定レイトショー公開される。webDICEでは、今作と彼らの軌跡を辿る特集上映「メナヘム・ゴーラン映画祭」のために来日した、同じイスラエル出身のヒラ・メダリア監督のインタビューを掲載する。

映画監督としてそのキャリアをスタートしたメナヘムと、プロデューサーとしての鋭い嗅覚を持つヨーラムという従兄弟のコンビは、1967年にキャノンフィルムズを創立。その後ハリウッドに進出し、低予算を逆手にとったアクションやホラーなど、メジャー映画会社では撮れないジャンル・ムービーを次々と発表。批評家から酷評を受けながらも興行的な成功を収めると同時に、ジャン・リュック・ゴダールの『リア王』やジョン・カサヴェテスの『ラヴ・ストリームス』、ロバート・アルトマンの『フール・フォア・ラブ』など映画作家の作品にも出資を行った。残念ながらこのドキュメンタリーの完成後、メナヘム・ゴーランは2014年に死去したが、今作には二人が映画に注いだ溢れんばかりのエネルギーと映画愛が、ジャン・クロード・ヴァンダム、ジョン・ヴォイト、イーライ・ロスなど様々な関係者のインタビューとともに綴られている。

これは二人のラブストーリーでもある

──本作を作るきっかけを教えてください。

私は1977年生まれで、彼らが成功し、活躍していた80年代はまだ幼すぎて体験はしていません。ただメナヘム・ゴーランも、ヨーラム・グローバスもイスラエルではとても有名で、イスラエルのクラシック映画というのはほとんど彼らが作ったものだったので、彼らの存在は知っていました。10年前、私が最初の映画を作ったときに買い手がつかず、ダメ元でメナヘムに相談したことがありました。彼はすぐにデビット・ギルという方にコンタクトを取ってくれて、彼を経由して作品を売ることができました。後から知ったことですが、その時につながった人たちは、みんなキャノンフィルムで働いていた人たちだったのです。

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映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』ヒラ・メダリア監督

そして、ヨーラムの息子に会った時に、「僕の父親の話を映画にすべきだ」と言われたのです。興味があったので、実際に会ってみて、そこから映画作りがスタートしました。

様々な面白い話を聞かせてもらい、掘り下げれば掘り下げるほど、色々なエピソードが出てきて、それに惹かれていきました。

この作品はもちろんキャノンフィルムズを愛する人たちのための映画ですが、それだけではなく、個人的なストーリーも含まれています。成功を追い求めて、頂点に立ち、そこから転落していくという物語でもあり、ラブストーリーでもあります。結婚をして、家庭を築き、それが壊れて離婚へと至ります。

映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』より
映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』より、メナヘム・ゴーラン(右)とヨーラム・グローバス(左)

──「離婚」という言葉は映画の中でもメナヘムさんが使っていました。彼らの中にも自分たちが単なる仕事のパートナーではないという実感があったのでしょうか?

もともと従兄弟同士ではありますが、それを差し引いても、とても親密な関係でした。なんでも一緒に行っていたといいます。メナヘムの娘が言っていたのですが、一人が車を買うと、もう一人が色違いの同じ車を買うというように。また、ヨーラムの息子の話では、ホリデーも一緒に祝うくらい家族同士も近かったといいます。二人で成功を追い求めるという同じ目標を持っていたので、それだけ絆が強くなっていったのだと思います。

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映画『ラヴ・ストリームス』(1984年) キャノンフィルムズは、アメリカン・インディーズの父と呼ばれるジョン・カサヴェテス監督にも資金を提供した。

今作のカンヌ上映が二人の関係を親密に

──最初に監督が二人に会ったとき、彼らの関係はどのような状態だったのでしょうか?

メナヘムがキャノンフィルムを去ってから、彼らは何年間もずっと会っていない状態でした。NYのリンカーンセンターでレトロスペクティブが行われたときに久々に再会しましたが、その時も少し言葉を交わしただけでした。撮影を始めた当初も、お互いがなんとなく言葉を交す程度でした。二人の関係が変わった決定的な転機というのは、撮影を終えて、カンヌ国際映画祭でこの映画が上映されたときです。ヨーラムが私に初めて、「キャノンフィルムをメナヘムと去らなくて後悔している」と打ち明けてくれたのです。今まで一度も言ってくれたことのない言葉でした。カンヌという場に行って、観客にサインや写真撮影を求められ、大勢から尊敬される体験をして、昔の良い時代を思い出したのではないかと思います。彼らもこれ以上若くはならないので、お互い一緒に過ごせる時間もそう長くはないと気が付いたのではないでしょうか。

カンヌが二人の関係を親密にしたといえます。メナヘムと出会った時、「良い映画を作れば、絶対に賞に選ばれるよ」と言われました。ドキュメンタリー映画はそもそもカンヌではあまり選ばれることはないので、これが選ばれたこと自体が奇跡だと思います。この作品で、彼らをカンヌに連れて行けたことは素晴らしいことです。

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映画『スペース・バンパイア』 (1985年)吸血鬼+エロスというB級感満載のSF

──ヒラさん自身、映画の完成形は撮影前にどの程度イメージできていたのでしょうか。映画を作っていく中で、そのイメージはどのように変わっていったのか教えてください。

彼らはもちろんイスラエルでは有名だったので、様々なエピソードは知っていました。例えば冷蔵庫を売って映画を作ったとかいう話があります。でも、彼らがどれだけ大きな存在でどれだけ世界中に影響を与えたかということは知りませんでした。それは彼らが転落していったときのことを知る上ではとても大切なものでした。 このように彼らの作品が日本でも人気があって、上映することになるなんて、撮影を始めた頃は考えてもいませんでした。

映画『ブラッドスポーツ』より
キャノンフィルムズ製作、ジャン=クロード・ヴァン・ダムの出世作『ブラッドスポーツ』(1988年)

──資料映像が沢山出てきますが、それを集めるのにメナヘムさんの助けがあったのでしょうか?

実際メナヘムや彼の娘さんが昔のアーカイブ映像を沢山保管していました。でも全てVHSだったということもあり、作品として上映出来る画質の映像を世界中から探すのには苦労しました。全体の70分をアーカイブ映像が占めているので大変でしたね。でもアーカイブ映像を見るのが好きなので、集めるのも苦になりませんでした。実際使わなかったものも整理して家に保管してあります。他に映画を作りたいという人にはみせてもいいのですが、権利料が高いので色々と問題があります。

メナヘムが成功する前に彼らをとったUCLAの学生が作った作品を見つけたり、リサーチをするチームもいたからできたことです。

──調べてからまとめるまでどれくらいの時間がかかりましたか?

映画全体の完成には3年かかりました。アーカイブを集めるのは早くから着手していたのですが、その中からどれを使うかは、全体のストーリーが決まってから決まります。はじめは大まかに二人のことを調べて行って、全体の枠が決まってからより詳しく調べていきました。例えばパテ社のパレッティーが逮捕されて二人で出てくるシーン。ああいうのはキャノンフィルムの二人について調べているだけでは出てこないものです。これはストーリーが決まってから探し出してきた映像です。

撮影の話でいうと、私が彼らを撮ることにした動機は二人の関係性に魅了されたという理由があるのですが、最後まで二人を一緒に映すことはしていません。二人を合わせ、同じ質問をすると全く違う考え方を述べて議論がはじまるので、最後に二人を会わせることに決めました。

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映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』より、メナヘム・ゴーラン

ラストシーンの理由

──二人を最後に会わせるというのは初めから決めていたのでしょうか?

撮影を始めた頃、ヨーラムにインタビューを申し込んでも約束の数時間前にキャンセルになることが度々ありました。映画の終盤、二人が出会うシーンは実は最初にヨーラムをインタビューしたシーンだったのです。そこでの二人の様子をみて、別々に撮るのが正解だと思いました。

──最後に二人で映画を見るシーンはいつ撮りましたか?

映画が完成する一年ほど前で、最後の撮影でした。インタビューで二人が同じ部屋にいるといつも議論しあっていました。最後は二人が落ち着いた気持ちでいるシーンにしたかったのです。

──議論しながらも、二人はどこかつながっているような一緒にいたいような気持ちをもっていたのでしょうか?

二人は話をしながら、どこかでお互いに怒りを抱いていました。メナヘムはヨーラムに対して不動産に投資しすぎたと、ヨーラムはメナヘムに対して映画を作りすぎたというふうに、会社が潰れた理由をお互いのせいにしていました。ちょっとしたことが積み重なって許せないでいたようです。ビジネスパートナーが別れると、その過程は醜い形で残ってしまうものです。

しかし、お互い年をとり、だんだんと死に近づいていくことを実感したのでしょう。メナヘムは腰の骨を折って車椅子でカンヌに登場しました。「80歳を過ぎたら病院を去ることはない、つまりこのまま死ぬんだよ」とジョークを飛ばしていたほどです。残り少ない年月を、お互い気持ち良く過ごさないといけないと、昔の良い記憶を思い出して、二人の関係は良くなっていったようです。

映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』より
映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』より、ヨーラム・グローバス

──映画の途中で、「ネガティブなことは絶対に言わない」とメナヘムが怒るシーンがありました。そういった感情を引き出せるほどの関係になるまで、どれくらいかかりましたか?

段階をおって関係を築いていきました。メナヘムはオープンな性格で、関係を築くのは比較的早かったです。そのシーンは彼をよく表している場面ですね。彼は過去の失敗は消し去り振り返らないという性格なので、一番好きな作品は?と質問されると、いつも彼の次回作を挙げていたほどです。

ヨーラムの方が関係を築くのが困難でした。6ヶ月かけてようやくインタビューにこぎつけましたが、最初のインタビューでは自分をよく見せる話しかしたがりませんでした。

徐々に打ち明けていって、徐々にもっと突っ込んだ話ができるようになりました。今でもその関係が続いていて何でも話せる仲になりました。

映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』より
映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』より

──映画作りが時代と共にどう変化していったかということを描く、映画史のドキュメンタリー映画としてもとても楽しみました。

映画の中で二人を批判的に描いているところはありますが、彼らの映画業界全体に与えた業績や影響、どれだけ人々に愛されていたかということを伝えたいと思っています。彼らの歴史自体が映画業界の一部の歴史を語っています。また、映画を好きな人だけでなく、ヒューマンストーリーでもあるのでより多くの人が楽しめると思います。

(オフィシャル・インタビューより インタビュアー:樋口泰人)



ヒラ・メダリア(Hilla Medalia) プロフィール

ピーボディ賞受賞、エミー賞に3度ノミネートされた映画監督、プロデューサー。作品は批評家から高い評価を得て、国内外の劇場、HBO、MTV、BBC、ARTEなどの放送局で放映されている。主な作品に「To Die in Jerusalem」(2007年/HBO放映)、「After the Storm」(2009年/MTV放映)、「Numbered」(2012年/ARTE放映)、「Dancing in Jaffa」(2013年/トライベッカ映画祭、IFCサンダンスセレクション上映)、「Web Junkie」(2014年/サンダンス映画祭上映/PBS、BBC放映)、『キャノンフィルムズ爆走風雲録』(2014年/カンヌ国際映画祭上映)。最新作「Censored Voices」(2015年)は、サンダンス映画祭とベルリン国際映画祭にてプレミア上映され、今秋に劇場公開を予定している。南イリノイ大学にて文学修士修得。




映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』
11月21日(土)よりシネマート新宿にて1週間限定レイトショー

『キャノンフィルムズ爆走風雲録』ポスター

監督:ヒラ・メダリア
撮影:オデッド・キルマ
出演:メナヘム・ゴーラン&ヨーラム・グローバス(キャノン・フィルムズ共同設立者)、シルヴェスター・スタローン、ジャン・クロード・ヴァンダム、ジョン・ヴォイト、チャールズ・ブロンソン、チャック・ノリス、イーライ・ロス他
提供:日活
配給:東京テアトル、日活
後援:イスラエル大使館
字幕監修:町山智浩/字幕翻訳:三田眞由美
原題:The Go-Go Boys: The Inside Story of Cannon Films/Golan-Globus
2014年/イスラエル/89分/カラー/デジタル

公式サイト:http://www.cannonfilms2015.com/
公式Facebook:https://www.facebook.com/cannonfilms2015/


■『メナヘム・ゴーラン映画祭』
シネマート新宿、大阪シネ・ヌーヴォにて11月27日(金)まで開催中

公式サイト:http://www.cannonfilms2015.com/golanfes.html


▼映画『キャノンフィルムズ爆走風雲録』予告編

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