骰子の眼

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東京都 渋谷区

2016-12-29 21:15


【追悼ピエール・バルー】アップリンクに種を蒔いてくれたイベント『花粉現象』開催時のインタビュー再掲載

ピエール・バルーはメディアにおもねらず、世界中に音楽と映像の種を蒔き続ける
【追悼ピエール・バルー】アップリンクに種を蒔いてくれたイベント『花粉現象』開催時のインタビュー再掲載
ピエール・バルーさん 2009年12月、ラミュゼ de ケヤキにて

フランスのアーティスト、ピエール・バルーさんが12月28日に心臓発作のためパリの病院で亡くなったことが発表されました。82歳でした。webDICEではピエールさんへの追悼の意味を込めて、2009年12月に日本での活動の拠点、ラミュゼ de ケヤキで行ったインタビューを再掲載します。クリエイションを行い、自らそれを人々に伝えるまでの全てを自分で体験してきた人にしか語れない、美しくキラキラ輝く自然石のような言葉が連なり、風のように軽やかに見える活動をしてきたピエール・バルーさんのインタビューをお届けします。ご冥福をお祈りいたします。


80年代にはYMOやムーンライダースのメンバーなど日本のアーティストたちと積極的にコラボレーションを行い、現在もカヒミ・カリイほか多くのアーティストからリスペクトを寄せられるフランス在住のアーティスト、ピエール・バルー。彼が映像作家として手がけた作品の上映イベント『ピエール・バルーの花粉現象 Effet pollen de Pierre Barouh』が渋谷アップリンク・ファクトリーで2009年12月23日、24日の2夜に渡って開催される。

これまでに彼が制作してきた作品をピエールさん本人による解説とともに楽しむことのできる内容。その場の即興でセレクトされた短編作品も上映され、もしかして歌や演奏のサプライズもあるかもしれない(!)という。氏のこよなく愛するブラジル音楽のように独自の編集のリズムを持つ映像を、一挙に堪能できるプログラムとなっている。開催に先立ち、映画『男と女』に代表されるヒットメーカーであり俳優であり、そして来年で45周年を迎える老舗インディ・レーベル、サラヴァでブリジット・フォンテーヌ『ラジオのように』など先鋭的な作品を数多くリリースしてきたレーベルオーナーとしての姿まで話を聞いた。友達に聴かせたいという気持ちからスタートする、と語る彼の言葉は、そのままインディペンデントな活動の原点とも言えるのではないだろうか。

まず自分が感動した、ということが出発点

──今回クリスマスの夜に開催される上映イベントですが、タイトルとなっている『花粉現象』というのはとても想像力をかきたてられるフレーズです。ピエールさんの考える〈花粉〉とはどんなものでしょうか?

植物界においては、命の種を蒔いていくのが花粉の役目です。そのように考えや思想というものは、一度人が発表すると、風が吹いて花粉が広まるように、人の心や頭の中に落ちて、そこからどのような芽が出るか解らない。そんなイメージからこのタイトルをつけました。私に関して言えば、生涯いろいろなことを表現しながら花粉を蒔いてきた人間です。私の活動はちょっと特異で、アーティストだけれど、エージェントを持ったこともないし、マネージャーを持ったこともありません。まったく自分ひとりで気のおもむくままにやっています。

でもそのおかげで、長い現実生活のなかでいろんなことを表現してきました。それが例えば今回のイベントをやることもひとつの花粉の現象であって、アップリンクというところに種を蒔いてみようかとことです。私はいつもものを作るときに、3人くらいの友達に見てほしいとか聴いてほしいと思っているんですけれど、できあがった結果、それにもっと多くの人が触れることができたら、素晴らしいことだと思っているんです。

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日本での活動の拠点、ラミュゼ de ケヤキの庭にて

──〈花粉〉という言葉には、ピエールさんの表現活動全般に対する哲学が込められているわけですね。

例えば第一夜で観ていただく『サラヴァ』という映画なんですが、1969年にほとんど偶然のような状況で3日間で撮った映画なんです。その後眠っていたんですけれど、約15年ぐらい前に日本のポリスターというレコード会社と契約したときにプロデューサーの牧村(憲一)さんから「なにかブラジルの面白い映像はないか」と言われ見せたところ、彼がぜひこれをビデオ作品にしようということで、どんどん話が進んでいった。だから今から考えれば、全てのことが次から次へと予測しないシナリオのように起こっていったんです。

最初に『男と女』(1966年)という映画に参加するときも、その頃自分が書いた「Samba Saravah」という曲を、映画の制作とは関係なくクロード・ルルーシュ監督に聴かせたんです。そうしたら監督が気にいって、どうしても映画に入れたいということで入れることになった。もともとは自主制作の作品であったから、誰も売れるとは思っていなかったんですけれど、世界的なヒットになった。それによって映画で使われた「Samba Saravah」も流行し、ピエール・バルーはブラジルに詳しいということになって、いろんな話が舞い込むようになった。ビデオ化に関しても、それから40年くらい経って日本でそんな話があったということで、風が吹くように、川が流れるように、表現というのは一度世の中に出すと、それがたとえ少数の人間のためであっても、表現自体に命の種があった場合はいつか芽吹くんじゃないか、そういう気持ちでやっています。

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映画『サラヴァ』より

──『サラヴァ』『アコーデオン』ではそれぞれ、その場所に住むミュージシャンとの交流が、そこでしか得られない瞬間として記録されています。その現場に行くことで偶然撮影できたところが多いのでしょうか?

私は予測したり前から決めることができない人間なのです。『アコーデオン』のときもフランスのチュールで開催されたアコーディオンの国際フェスティバルがありリシャール・ガリアーノという私が知っているミュージシャンが審査員長だったことがあったんです。私はいつもカメラを持っていますから、その時にずっと興味のあるものをカメラで追いかけていて、それを編集しました。編集したときはただ自分の友達に見せるつもりで作っていたんですけれど、そうしているうちにどんどん見せる人が増えていってこういう形になったんです。

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映画『アコーデオン』より

──そうしたピエールさんの創作に対する姿勢は、なにかを表現したいと思ったはじめの頃から変わらないのですか?

最初からずっと〈今〉ということが好きなんです。その瞬間、だから予想するのは好きじゃないし、いつも今ばかりを追いかけています。コンサートをやるときも曲順を考えたことがないし、その時の気分でお客さんと話ながら「じゃあ次は何を歌おうか」という感じなんです。

──周りの友達に聴かせたい、というモチベーションからスタートする一方で、来年45周年を迎えるサラヴァ・レコードというレーベルのオーナーとしては、活動以来マーケットというものを意識したことはありますか?

まったくそれはありませんね、それが企業としてまずいことだと思うんですれど(笑)。普通企業というのは人々が何を要求しているのかとか、それでいくつ売ってどれだけ儲けるのかということを考えるのが当然なんですけれど、私の場合は、まず自分が感動した、ということが出発点です。それが売れようが売れまいが、自分が感動したなら他の人も感動する筈だ、という信念、それだけで作っています。その感動だけがポリシーですね。

──ではその気持ちが45年続けることのできた原動力なんですね。

いつも私は口癖のように言うんですけれど、時間は完璧なフィルターであり、ふるいにかけられる。いいことをやっていればいつかはきっと認められると思っています。サラヴァも絶えず人を雇ったりすることなく、自分たちでできることをやってきたのが続けられた秘訣だと思います。だから40年前に録音したブリジット・フォンテーヌの作品が今でもコンスタントに売れているというのは、伝説的な話になっているのです。今のポップスに40年後に売れる作品がどれだけあるかといったら、あまりないと思いますから。ワールド・ミュージックという言葉が出る前に、アフリカのミュージシャンのレコードを出すということになったときもメディアの連中はみんなバカにしました。それ以来メディアとは戦いの歴史があるんです。

サラヴァ・レーベルの代表作、ブリジット・フォンテーヌ『ラジオのように』(1969年)

──現代は、70年代と比べて音楽のパワーが落ちていると感じますか?

そう思います。なぜかというと、30年前と比べるとメディアの力というものがものすごく巨大なものになってしまって、いたるところにメディアがあって、それを若いアーティストたちもみんな見ているからです。そうすると「これを真似しないと売れないのか」と自己規制が働いて、同じようなものを作ろうと我知らず思ってしまう。でも、そういうなかでも見えないところでがんばっている人が絶対いるはずだと信じています。

それから問題なのは、メディアのせいだけでなく、それを見ている我々の価値観もメディアによって曲げられてしまっている。以前のほうが自分で好きだと思ったり、自分で歌いたいと思ってレコードを買ったりしていた。例えばサッカー選手が「やった!」というときの新しいポーズを考えると、3日間で世界中のサッカー小僧たちが同じポーズをするように広まってしまいます。あまりにも巨大なメディアの力に影響を受けすぎてしまっている。

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ピエールさんの自宅にある映像編集用PCの前で

──そうした一般的な概念や価値観をずらしていくこと、ピエールさんの手がける作品にはそうした魅力があると思います。

40年前に『サラヴァ』を撮ったときも、当時普通の世界中の人が思っているブラジルというのはカーニバルというイメージしかなかった。そこで音楽をやっている人たちが、すごくシンプルに海辺でギターを弾いたり歌ったりということは誰も見たことがなかったし想像もしなかった。だから『サラヴァ』には冒頭のシーンにいわゆるクリシェとしてカーニヴァルで踊り狂っている群衆の映像を用いながらも、そこからその裏側へ連れて行きますよ、という具合に進んでいくわけです。

(初出:2009年12月16日 インタビュー・文:駒井憲嗣 photo:Takemi Yabuki)



ピエール・バルー プロフィール

1934年02月19日、フランス、パリ郊外でトルコから移住してきたユダヤ人の家庭に生まれる。歌手、作詞家、作曲家、俳優。音楽レーベル“サラヴァ(SARAVAH)”主宰。


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