骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2017-12-15 00:35


菊地成孔絶賛!"真のアフリカの姿"を伝える映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』

サプールやカサイ・オールスターズも登場、キンシャサを舞台に描かれる愛とリアル
菊地成孔絶賛!"真のアフリカの姿"を伝える映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』
映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』© ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS - KATUH STUDIO - SCHORTCUT FILMS / 2017

アフリカ映画最高峰の映画祭FESPACOで、名匠たちもなし得なかった2度の最高賞を獲得し、世界が注目するアラン・ゴミス監督作品『わたしは、幸福(フェリシテ)』が12月16日(土)より公開。webDICEでは、ゴミス監督と音楽家で映画批評家の菊地成孔氏の対談を掲載する。


「この映画は観客との間の空間をつくることに成功していると思います。機能的なハリウッド式情報が転がっていって感情を動かすエンターテイメントとは全く逆の、非常に心の深いところが動く映画だと思いました」(菊地成孔氏)


門切り型ではない、真のアフリカの姿を伝えている映画(菊地成孔)

菊地成孔(以下、菊地):本当に大げさでなく魂を揺さぶられるような感銘を受けました。アフリカ映画はドキュメンタリーも劇映画も数が少ないので、アフリカ音楽を研究している立場としてほとんど拝見していて、監督の映画の舞台でもあるキンシャサで撮影された『キンシャサ・シンフォニー』ももちろん観てますが、『わたしは、幸福(フェリシテ)』は最も、門切り型ではない、真のアフリカの姿を伝えている映画だと思います。僕自身がアフリカ大陸に行ったのは、一度ケニアに行ったくらいで、そんなに現地のことを知っているわけではないのですが……。

アラン・ゴミス(以下、ゴミス):ありがとうございます。僕がこの映画で試みようとしたのは、すでに出来上がっているアフリカのイメージを与えることではなく、まさに今あるその街の感覚を伝えることだったので、そう言っていただけると非常にうれしいです。

対談
アラン・ゴミス監督と菊地成孔氏

現場でいかにドキュメンタリー的な要素を持ち込むかと言うことを常に意識している(アラン・ゴミス監督)

菊地:ペドロ・コスタ監督の『コロッサル・ユース』という作品があります。その映画は“ドキュメンタリーのカメラで劇映画を撮っている”と言われてたんですけど、非常にすごい作品で、カメラの視点はドキュメンタリー、でも撮っているものは劇映画、というものなんです。近年そういう境界を超える映画が増えてますが、たとえば2015年には、日本人監督が撮った『Cu-Bop(キューバップ)』という作品があって、アメリカ合衆国と国交回復直前のハバナをドキュメントした映画なんですが、こちらはドキュメンタリーのカメラでありながら、まるで劇映画のようなドラマの性質を持っていて、ドキュメンタリーとフィクションの境目という感覚や、街を映すだけということが非常に強いメッセージを持っていると言うことに、監督の映画と同様の感動を得ました。

ゴミス:僕たちが映画を撮っている時も、あるシチュエーションだけを作ると、その現実の中に俳優たちを置いて、彼らに相互作用を起こさせると言うことをよくやります。もちろんシナリオを書くときにシーンは書いてありますが、現場でいかにドキュメンタリー的な要素を持ち込むかと言うことを常に意識しているんですよ。この方法ならお金をかけずに映画撮ることもできますしね。街で撮影するときに通行人を全部ブロックする必要もなく、ある種の撮影システムだけ構築し、実際にあるシチュエーションの中に俳優たちを放り込めば、周囲の人たちも映画に対して何らかの影響を及ぼしてくれると考えています。

◎サブ6_フェリシテ
映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』© ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS - KATUH STUDIO - SCHORTCUT FILMS / 2017

菊地:非常によくわかります。一方で、先ほどの『Cu-Bop(キューバップ)』の例でいえば、ハバナの街でとにかくカメラを回しておけば、世界中の誰も見たことがないような画が映る、一つの映画的な効果が約束されるわけですけど、たとえば、有名なモハメド・アリとジョージ・フォアマンの試合が延期され、そして中止になって宙ぶらりんになった音楽祭を描いている『ソウル・パワー』は、いっさい街が出てこないドキュメンタリーであるわけです。一方、『わたしは、幸福(フェリシテ)』では一部の人たちに注目されているサプールと呼ばれる人たちや、キンバンギスト交響楽団が実際に観られるという側面もありますが、そういった素晴らしさを持ちつつも、脚本自体がすごく優れている。僕が想起したのは中南米文学で、ホセ・ドノソの「夜のみだらな鳥」や、ガルシア=マルケスの物語の終わり方、いわゆるマジックリアリズムと言われるものを感じました。

ゴミス:街をそのまま撮るということは非常に素晴らしいと思います。そのリズムとか息遣いを伝えるということだと思いますので、非常にチャレンジングなことであるとも思います。特にキンシャサという街は、見えるものと見えないものの境界線のような、ある意味、生者と死者の中間にあるような街だと思うので、その街を映画の中に映し込みたいと思ってたんです。そして文学との関わりですが、アフリカにもいわゆるマジックリアリズム的な本がたくさんありまして、たとえばナイジェリアの作家、ベン・オクリがそうですね。「ロルサ・ロペスの七つの孤独」を書いたコンゴのソニー・ラブ=タンシもそんな一人で、想像の都市の首都を別の街に移すと、中央省庁も道も川も全てが移行していくという話を書いた作家です。ベン・オクリの書いた「満たされぬ道」は、今回の映画のために僕が参考にしたものの一つなんです。

二つの音楽が対話をしながら、この映画の一つの音楽を作っている

菊地:日本にも数は少ないですが、アフリカ音楽のファンがいて、カサイ・オールスターズは何度も来日してますし、音楽ファンにとってはこの映画は別の楽しみ方があると思います。カサイがバーのハウスバンドをやっているというのを観るだけでも痛快というか楽しいと思います。(劇中でアルヴォ・ペルトを演奏している)キンバンギスト交響楽団について言うと、ベトナム戦争が終わった頃にハノイにできたハノイ交響楽団や、文革が終わった直後にできた北京交響楽団や、ペルーの山奥には全く教育を受けていない子供たちで形成されている交響楽団があったりして、そういった希少価値を持ったものが与える効果、というか、決して巧いわけではない、場合によっては楽器すら揃ってないこともあるんだけど、彼らの演奏が与える敬虔さというものがある種の感動を与えるということがあります。キンバンギスト交響楽団は(ベネズエラの教育システムの)エル・システマのアフリカ版として有名ではありますけど、実際にこういう形で映像に収めたというのは素晴らしいと思います。『キンシャサ・シンフォニー』のようなドキュメンタリーだと物珍しさが勝っちゃうんですけど、この映画では何にも説明もなく挿入されていることによって生じる効果が非常に大きいと思います。

この作品は生と死から始まり、朝と夜とか、いろいろなものを対比しているとは思いますがカサイ・オールスターズとアルヴォ・ペルトとの対比が素晴らしいし、音楽ファンにもすごく嬉しいものだと思います。

ゴミス:カサイの音楽は現地ではフォルクローレという伝統的な音楽と位置づけられていて、バーでも歌われますが、お葬式で歌われるんです。ある意味、先祖と現世の人を結ぶ音楽でもあります。それがバーで演奏されることで、トランス状態が作られるわけです。そしてカサイの音楽には、電気、エレクトロというかロックとも混ざりあって、伝統と現在が混ざりあったようなものになっていると思います。また、キンバンギストの音楽も、もちろんペルトの有名な曲ですけが、彼らが演奏することによって全く別のコンゴ風の音楽になってます。菊地さんが今言われたように、この二つの音楽が対話をしながら、この映画の一つの音楽を作っているんです。

◎サブ5_フェリシテjpg
映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』© ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS - KATUH STUDIO - SCHORTCUT FILMS / 2017

映画館のスクリーンではなく、観る人の心の中で映画が起こっている(アラン・ゴミス監督)

菊地:アルヴォ・ペルトはいわゆる疑似的な宗教音楽が作風だといわれていて、それは端的にクリスチャン(キリスト教徒)をイメージとして示していて、キンシャサは、この映画の中でも描かれてますけど、キリスト教の人が多いわけですが、多くの日本人はアフリカ諸国とヨーロッパから来るキリスト教の関係が、真横というか水平の関係にあるイスラムや土着信仰とのバランスがどうなっているのか知りません。今我々が、宗教的な音楽を聴いたときに、宗教的感動を得ることはなかなか難しくて、特にキリスト教的音楽となるとさらに難しいんですが、僕も音楽家の一人として、この映画のキンバンギスト交響楽団が与える一つのショックのような宗教的な敬虔さは頭から離れません。

ゴミス:僕もそうです(笑)。アマチュアが演奏する音楽って一種のはかなさや脆さみたいなものがあって、たとえば俳優でいえば、プロの俳優じゃない人が初めて演じるときに、ちょっと失敗したらどうしようというような、その頼りなさや脆さが特に誠実さも相まって美しいものを生むことがありますよね。

菊地:僕もそう思います。この映画はあらゆる二つの対比が出てくるという話を先ほどもしましたが、キンバンギスト交響楽団がこの映画で果たしている役割という中には、一つは教養主義に対してということがあると思いました。アフリカ大陸は長く侵略を受けて、そしてポストコロニアリズムからオーケストラが定着した…それで僕が思い出したのは、たしか(アフリカでの医療活動でノーベル平和賞を受賞した)アルベルト・シュヴァイツァーは、熱心なバッハ弾きであり、オルガニスト(オルガン奏者)であり、ついでにオルガンを制作することもでき、それを現地で制作してアフリカで最初にバッハを弾いたことです。キンバンギストやカサイ・オールスターズの音楽もそうですが、この映画が見た人に与える感覚には、教養主義と無教養主義というか、こんな音楽聴いたことないという感覚と、アフリカの歴史の中でなぜオーケストラが少ないのかという歴史的な教養からくるものがあります。植民地時代のアフリカという歴史的教養があるうえでの感動と、無教養な状態から出てくるいい意味での悪夢的な、何教かすらも全くわからない宗教的感動が襲い掛かってくる。本来なら分離しているはずの両者、歴史を知っている立場と、何も知らないで見る立場という二つの感覚が同時に押し寄せてきて素晴らしかったです。

ゴミス:僕は、映画というのは映画館のスクリーンで起こっているわけではなく、観る人の心の中で映画が起こっていると思っていて、ちょっと抽象的な言い方になってしまいますが、僕たちの仕事は物事と観客の間に空間を作ってあげることで、その空間の大きさを作ることが僕たちの仕事だと感じてるんですね。二つの対比というのは言い方を変えると、そこに様々な距離をとることによって、壁にボールが当たって跳ね返ってくるようにアルヴォ・ペルトの音楽とカサイ・オールスターズの音楽が壁に跳ね返りながらお互いに共鳴しあっているんだと思います。

僕が初めて感激した映画は、たぶん10歳か11歳ころに観た日本の小津安二郎監督の『生まれてはみたけれど』なんです。観た時の驚きはすごくて、白黒で無声映画で日本で、なんだこれは、と思いつつ、自分の中に何か語り掛けてくるような気がしたんです。今思い返すと、自分と映画の間にある空間がより大きな感動を生み出したんだと感じてます。そういう意味でも、僕は観客との間に空間を作ってあげることが映画監督の仕事だと思ってるんですよ。

◎サブ3_フェリシテ
映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』© ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS - KATUH STUDIO - SCHORTCUT FILMS / 2017

菊地:日本の作品を観て感動したということを誇りに思います。またこの映画は空間をつくることに成功していると思います。僕も動揺に近い感動を覚えました。多くの日本人はアメリカのハリウッド映画ばかり見ているので、主人公のフェリシテの表情すらおそらく読み取れない、彼女の絶望や喜びがどれくらいのものかわかるくらいには目が慣れていないと思うんです。だからこそ、というところもあるんだけど、機能的なハリウッド式情報が転がっていって感情を動かすエンターテイメントとは全く逆の、非常に心の深いところが動く映画だと思いました。

僕が思う本当に優れたカメラというのは、偶然か必然かもわからないんだけど、一種の不条理的なアイコンをとらえてしまうものなんです。この映画でいうと、交通整理か何かのロボットが出てくるシーンでうけたショックです。ジャ・ジャンクー監督の『長江哀歌』の中でただの古い廃屋だと思ってた建物がロケットとして宇宙に飛んでいくショットがあります。僕はそのイメージ的な連結で、ロボットからそのロケットを思い出しました。タブーがいかに自分がすごいかという話をするシーンですけど、そこにロボットが映り込むことで、この映画が高次元のヒエラルキーにあって素晴らしいカメラに恵まれていると思いました。

ゴミス:表情がわかりにくいということに関してですが、コンゴ人のなかにも表情豊かな人や、あまり表情豊かでない、あまり本性を見せない人もいて、今回はあまり表情を見せない人を選んだせいもあるかもしれません。それは先ほど言ったように、距離を作ると言うことに繋がっているんです。表に出さないということで距離を作って、観客が(彼女は)何を考えているんだろう、と自分に問いかけることでより深く感じてもらえると思ったからです。

カメラについてですが、撮影監督はセリーヌ・ボゾンという、今までトニー・ガトリフ監督などと仕事をしてきた人で、僕にとって最も信頼のおける人です。映画は共同作業なので、ある意味インプロヴィゼーションですよね。また今回はデュード・ハマディというコンゴの若いドキュメンタリー監督も撮影を手伝ってくれたので、僕も観客的な新鮮な目でキンシャサの色んな表情を知ることができたと思います。

◎サブ2_フェリシテ
映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』ヴェロ・ツァンダ・ベヤ © ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS - KATUH STUDIO - SCHORTCUT FILMS / 2017

劇音楽が一切ないことにより、音楽が鳴り始めた時の触発感が強い(菊地成孔)

菊地:僕が最初に衝撃を受けた作品は、あなたの母国といっていいのかわかりませんが『ラルジャン』というロベール・ブレッソンの映画で、それはプロの俳優が出てこなくて、いったいこれは何なんだと、リアルな感覚でありながら不条理な感覚があり、映画とは何かと問いかけられるような作品でした。

監督の作品で素晴らしいと思うことの一つは、アンダースコアと言いますが、いわゆる劇音楽が一切ないことです。映画の中で演奏される音楽があるだけで劇音楽が全くない。映画というのは大体はそのシーンに合わせた劇音楽が簡単に鳴ってくるものなので、この映画では、すごく深い静寂というか、キンシャサの夜の闇にも似た静寂が非常に長く続くために、音楽が鳴り始めた時の触発感が強いんです。これも監督が先ほどから言っているように、二つの音楽がキャッチボールすることによって距離感がでて、何かが生み出されるという感じがフィロソフィーとして行きわたっていて成功していると思います。

◎メイン_フェリシテ
映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』© ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS - KATUH STUDIO - SCHORTCUT FILMS / 2017

ゴミス:ありがとうございます。ロベール・ブレッソンの話が出ましたが、実はブレッソンも僕に影響を与えた一人で、映画だけでなく彼が書き残したものにもすごく影響を受けています。ブレッソンは、必要なものだけを捕まえる、必要なものだけを使うという域に到達できた人だと思います。

菊地:よくわかります。『わたしは、幸福(フェリシテ)』では俳優たち、とくに主要キャスト三人とも非常に素晴らしかったです。あまり対比してはいけないですが、一般的な女優さんというのは、数分に一回は笑うし、怒るし、表情がとても豊かなんだけど、豊かなだけに液状化してしまっているんですが、フェリシテが笑う、笑顔を見せるというのは、とてつもなく溜めが効いていて、この人はもう一生笑わないんじゃないか、と思うときに出る笑顔が、乾いたときの一滴の水、というような感じで、笑顔の意味合いや重みが強く、絶望の表情もおいおいと泣いたりしないんだけど、非常にエコロジカルというか、作り物じゃない悲しみが迫ってきます。特に片脚を失う息子が、PTSDというか一時的なトラウマで全く口がきけなくなっている状態から、その後彼がどのように変わっていくか観ていくと、それがタブーに酒を飲まされて酔っぱらって盛り上がるところで転じるんだというショックと、おそらくはそうだろうというリアリズムに引き裂かれるんですが、監督が好きだと言う小津監督もブレッソン監督も、人間的と言われるものを停止することによって、最終的にはどっちか分からなくなってしまう状態、あるいはどちらでもあるという状態にしてしまうんですよね。つまり、生が死を含み、幸福は不幸を含むというような境地に連れていってくれる。こういう作品というのはあまりないですね。

文学やほかのジャンルと比べても映画は、その境地に行ける強いメディアだと思ってます。僕は音楽家なので、もっと生きる喜びの方に偏りがちだけど、映画だと人間をフラットに捉えられる、要するにもうひとつ上の境地に行ける力を持っている。そういうエネルギーに満ちた作品だと思いました。

ゴミス:僕たちはこの映画で、時間とか風とか、すぐ消えてしまうようなものを何とか捕まえて、たとえ捕まえられなくても、そこに触れているものを見せたいと思っていました。 僕が好きな作家にモーリス・メーテルリンクという人がいて、彼は、自分の好きなものはそこに名前を与えた瞬間に死んでしまう、ということを言っていました。

◎サブ4_フェリシテ
映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』© ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS - KATUH STUDIO - SCHORTCUT FILMS / 2017

名づけようのない感覚が映画で与えられる(菊地成孔)

菊地:この作品にはそういった象徴的なものがたくさん出てきますが、例えばオカピがでてきますよね。フェリシテが森の中で、沐浴なのか入滅なのか、おそらくコンゴ川だろうという川に入るシーンがありますけど、そこにオカピがいる。僕ら観る側には、キンシャサにはちょっと川に入って出てくるとオカピが普通にいるもんなんだと言うことなのか、あえて不自然にオカピを登場させたのかが全くわからないんですよね。全くわからないんですけど、そのことがどうでもよくなるというか、どっちでもあるだろうなと思えるんですよ。オカピというのがどういう動物であるかという教養もほとんどの人にはないだろうし、例えば神話的に出てくる意味があるのかないのかということも、何もわからない。まさに名前が与えられていない状況の横溢というか連続が映画の中にあって、監督の意図が非常によく伝わっていると思います。

ゴミス:ありがとうございます。一つ思ったのは、僕はリンガラ語はあまり喋れないんですけど、喋れない者同士がコミュニケーションすることによって、より分かりあうことがあるような気がしています。

菊地:(イタリアの映画監督の)フェデリコ・フェリーニの『フェリーニのアマルコルド』という彼の伝記的な映画の中にクジャクがでてくるんです。その意味が全く分からなくて、なぜここでクジャクが飛んでくるのか、どんな象徴的な意味があるのかも全くわからないんだけど、我々は名づけようのない状態に感銘するんです。同じフェリーニの晩年の『そして船は行く』という、船の航海中に第一次世界大戦が始まるというオペラの映画では、突如として、何の説明もなしにサイが船に積まれるシーンがあって、食べるのかどうするのか全くわからないんだけど、非常に印象的なシーンでした。そのような名づけようのない感覚が映画で与えられると、非常に印象に残りますね。今回、この映画にオカピが出てきた時に真っ先に思い出したのは、フェリーニのクジャクとサイでした。

ゴミス:オカピって生体数が少なくて、もう200体くらいしか見当たらない動物で、コンゴの北部に棲息しているんですけど、半分キリンなのか、シマウマなのかよくわからない。不思議な柄があって足も非常に細くて、言ってみればちょっと間違った動物です。その存在自体がある意味神秘的なので、たとえオカピを知らなくても観た人は、もしかしたら物語の世界から生まれた動物かなというような印象は受けるのではないでしょうか。




ポスター_わたしは、幸福(フェリシテ)
映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』© ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS - KATUH STUDIO - SCHORTCUT FILMS / 2017

映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』
2017年12月16日(土) ヒューマントラストシネマ渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次ロードショー

コンゴ民主共和国の首都キンシャサ。この街は優しいだけじゃ生きていけない。バーで歌いながら、女手ひとつで息子を育てている歌手フェリシテ。その名前はフランス語で“幸福”の意味。人生は彼女に優しくないけれど、歌うときだけ彼女は輝く。そんな彼女に気があるのは、バーの常連のタブーだ。ある日、フェリシテが目を覚ますと直したばかりの冷蔵庫が壊れていた。同じ日、一人息子サモが交通事故で重傷を負う。連絡を受け病院に急ぐが、医者は彼女に告げる。「前払いでないと手術はできない」。手術代を集めるため、フェリシテは、親族や別れた夫、以前お金を貸した男女、最後には見ず知らずの金持ちのボスを訪ねるのだった。誇り高く、自分を折ることができない彼女の中で何かが壊れていく。絶望から歌さえ歌えなくなるフェリシテ。夜の森を彷徨うフェリシテが見つける幸福とは……。

監督・脚本:アラン・ゴミス
撮影:セリーヌ・ボゾン
編集:ファブリス・ルオー、アラン・ゴミス
音響監督:ブノワ・ド・クレルク
出演:ヴェロ・ツァンダ・ベヤ、パピ・ムパカ、ガエタン・クラウディア、カサイ・オールスターズ他

原題:Félicité
製作年:2017年
製作国:フランス、セネガル、ベルギー、ドイツ、レバノン
129分/DCP/1.66/5.1ch/カラー/リンガラ語&ルバ語&フランス語
字幕:斎藤敦子 字幕監修:奥村恵子
配給:ムヴィオラ

公式HP:www.moviola.jp/felicite/


▼映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』予告編

キーワード:

アラン・ゴミス / 菊地成孔


レビュー(0)


コメント(0)