骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2018-02-10 23:00


佐々木敦が解説!七里圭監督による現在進行形プロジェクト「音から作る映画」とは?

2/18&24アップリンクで開催、シンポジウム「映画以内、映画以後、映画辺境」
佐々木敦が解説!七里圭監督による現在進行形プロジェクト「音から作る映画」とは?
2017年の連続講座より佐々木敦氏(左)と七里圭氏(右)

2月18日と24日にアップリンク渋谷ファクトリーで開催されるシンポジウム「映画以内、映画以後、映画辺境」は、2014年から4年間20回以上にわたり催されてきた連続講座のまとめのイベント。

その第二夜では、講座と並行して制作・発表されてきた七里圭監督の「音から作る映画」プロジェクトについて、貴重な記録映像を見ながらのトークが、宮沢章夫、佐々木敦、土居伸彰という豪華な登壇者で行われる。3月には新作映画『あなたはわたしではない』も公開を控えるこのプロジェクトについて、webDICEでは、登壇者の一人でもある佐々木敦氏の解説を、シンポジウムに先立って掲載する。

「シネマの倒錯的(再)創造」
文:佐々木敦

七里圭は、いったい何をやっているのか、それが問題だ。

「音から作る映画」と総称されている現在も進行中のプロジェクトは、二〇一四年四月の『映画としての音楽』から開始されて以来、すでに錯綜した履歴を持っている。何しろそもそもの始まりは映画ではなかったのだ。それは複数の声と演奏による一種の演劇公演であり、その一部始終が撮影=録音されていた。それらを基にして映画『映画としての音楽』が造られたのだ。つまり「音から作る映画」というのは文字通りの意味なのである。このことはおそらく何よりも重要な点のひとつである。

 

一生の不覚というべきだが、私はこのいちばん最初の公演を観ていない。私が体験出来たのは、それから約一年後、二〇一五年三月に行なわれた『サロメの娘』アクースモニウム上映が最初である。しかしその後は、今のところ京都で一回限り行なわれた『入院患者たち』ーー松井茂と山本一彰のテクストを使用した、アクースモニウム奏者/作曲家の檜垣智也による同名の音楽/音響作品を核とする「詩、音、映像によるインスタレーション」。後に『サロメの娘』に組み込まれる映像=場面を含むーーや、二〇一七年二月の三日間にわたる「音から作る映画のパフォーマンス上映」にも立ち会ってきた。『サロメの娘』『サロメの娘 アナザサイド(in progress)』『アナザサイド サロメの娘 remix』と、ややこしく題名を変化させてきた一連の映画も勿論観ている。足掛け三年に及ぶ一連の「音から作る映画」をほぼ継続的に体験してきたわけであり、そのなかで幾度かは七里本人と公開で話す機会もあったのだが、それでも尚、いまあらためて問うべきは、七里圭は、いったい何をやっているのか、という根本的な問題だと強く感じている。何故ならば、考えてみればみるほど、このプロジェクトはおそろしく倒錯的なものだと思えてくるからだ。しかも、その倒錯性は一通りではない。さしあたり三点に、ここでは整理してみよう。

(1)「無声映画」への非志向

「音から作る映画」なのだから当然と思われるかもしれないが、しかし周知の通り、映画は最初、サウンドを有していなかった。七里圭が問い直そうとしているのが「映画=シネマ」の本質、その原理、その基盤なのだとして、なぜそれはいきなり「音」から始まるのか。言い換えれば、なぜ「サイレント」という歴史的段階への言及が、そこには存在していないのか?

(2)「フィルム」への非志向

このプロジェクトで「上映」されるのは全てデジタル・ビデオである。しかし周知の通り、映画は最初、フィルムと呼ばれる物質から出発した。つまり(1)と同様、七里は少なくともここでは「映画の考古学」を一顧だにしていないように見える。「少なくとも」というのは無論、七里はこれとは別に『DUBHOUSE 物質試行52』を35ミリフィルムで(しかも二種類のフィルムで!)撮っているからである。だが、ならばこう問うてもよい。なぜ七里圭は『DUBHOUSE』で示した「シネマ」の物質的な側面の問題系をこちらには持ち込まないのか?

ライブ上映2

(3)「ライヴ」への志向

これまでの作品歴を繙くと、このプロジェクトにおいては明らかに「パフォーマンス上映」の方が通常の映画館におけるロードショー上映よりも重要視されていることがわかる。この「パフォーマンス上映」という言い方は多義的であり、生身の出演者によるパフォーマンスを伴う上映もあれば、上映それ自体をパフォーマンス化する場合もある(これは音楽で檜垣智也のアクースモニウムが担っている即興的/可変的な機能を「プロジェクター(+スクリーン)」にも適用することを意味する)。これもまた最初期の「シネマ」を彷彿とさせる。だとすればこの試みが意味するものとは何か?

こう纏めてみることで見えてくるのは、どうやら七里圭が「現在」そして「未来」の映画環境および技術的条件に立脚しつつ、しかしベクトルとしては「シネマ」の誕生期へと遡ろうとしているらしい、ということである。七里が驚くべき胆力と持続力で試みているのが一種の「シネマの再発明」なのだとして、その試行においては従来の映画の発展段階、その系統発生のプロセスが、ほぼ全面的に書き換えられ(ようとし)ている。彼が新たに創始しようとしている「映画史」では映画は最初からサウンドを持っており、その代わりにフィルムではなくビデオ、アナログではなくデジタルであり、尚且つそれは「再生=反復」よりも一回ごとの「パフォーマンス=出来事」に重心が置かれている。より精確に言えば、その始まりが端的に示していたように、むしろ或る具体的現実的な時空間(その時その場)に紐づけられた何らかの「出来事」が「シネマ」に先行していた、いや、その「出来事の時空間」も「シネマ」と呼んでよい、そこにはすでに「シネマ」が潜在していたのだと言っているかにさえ思えてくる。これを倒錯と呼ばずして何と呼ぶと言うのか。

ライブ上映3

だが、ある意味ではこれは端的に事実に即していると言えなくもない。もとより映画とは過去の断片の集積である。かつて、どこかで生起した出来事が、カメラと録音機器によって記録され、しかるべき作業を経てひと続きのオーディオヴィジュアル=ソニマージュに変成されたのが「シネマ」と呼ばれるものである。ということはそこには常に過去の「出来事」が映っているということであり、それは何か特別なアクションなどではなくても、撮る能動的行為と撮られる受動的状態の重ね合わせだけで十分に「シネマ」の要件を満たしているのだ、とする考えもあり得る。だが、それでもそこでは最終的に上映へと至る事後的なプロセスは必須とされており、たとえば陽の目を見ることもなければ完成することさえなかった映画の撮影状況、その「出来事」自体、ただそれだけを「シネマ」だと言い張ることは強弁というものだろう。だが「音から作る映画」には、そのような側面があるのだ。

ここで特筆すべきは、やはり「音から作る映画のパフォーマンス上映」だろう。第一日目、二〇一七年二月十七日の『サロメの娘/パフォーマンス』では「進行中の作品」である『サロメの娘』に途中から姿を現した(最初のヴァージョンには人の姿は一人も映っていなかった)娘と母=長宗我部陽子と黒田育世が半透明のスクリーンの向こう側に実際に登場し、われわれ観客は映写されている像と現にそこに実在する二人の姿を同時に目撃した。

ライブ上映1

二日目の『サロメの娘/アクースモニウム』は私は未体験だが、この形での過去何度かの上映と同じく、檜垣智也によるアクースモニウムの「生演奏」が映写と「共演」したものと思われる。

ライブ上映4

そして三日目の『Music as film』は、私が見逃したいちばん最初の『映画としての音楽』の改訂版であり、新たに英語話者数名がパフォーマーに加わり、映写される字幕もバイリンガルになっていた。約三年前に上演され録音された、その場にはいない者たちの声と、その場に集められた八名のパフォーマーの声が混交し、観客にはどれが今、その場で発されている声なのか判然としなくなるほどだった。

ライブ上映5

つまり『サロメの娘/パフォーマンス』と『Music as film』では、前者は映像、後者は音声で同様の試みが成されていたわけである。それは「その時その場」と「今ここ」の交錯、つまり「シネマ」と「リアル」の合成である。『Music as film』が『映画としての音楽』の文字通りの英訳であるのみならず、この長いプロジェクト全体をその開始時点と現在時点の両端から挟み撃ちするように対照形を成しているように思えたことも興味深い。いわば「音から作る映画」は、およそ三年を掛けて出発点へと帰り着いたのである(もちろん、それは今後も継続されていくのだが)。

では、再び問おう。七里圭は、いったい何をやっているのか、彼は果たして何をしようとしているのか。(つづく)


この続きは、新作映画公開時に発売されるパンフレットに掲載されます。




シンポジウム「映画以内、映画以後、映画辺境」
【第1夜】2月18日(日)開演18:00
【第2夜】2月24日(土)開演18:00 ※開場は10分前
アップリンク渋谷ファクトリー

2014年から通算20回以上を重ねる連続講座と、並行して制作されてきた「音から作る映画」プロジェクトのこれまでを総括するツーナイト。

【第一夜】2月18日(日)
〈映画の未来〉は、もう問題ではないのか?
デジタル化された映画は、昔の映画と同じものなのか?そんな懐疑はすでに過去のものなのか?反語的な問いかけで、今、映画がどこにあるか、どこへ行こうとしているかを考えるロング・トーク。先行してデジタル化した「写真」へも目配せします。

登壇:岡田秀則、金子遊、倉石信乃、廣瀬純、吉田広明、七里圭
※参加者全員に、講座4年間のまとめ冊子(総頁110P越え!)をプレゼント

【第二夜】2月24日(土)
〈音から作る映画〉は、何をしてきたのか?
ある時は映画、ある時はパフォーマンス。さまざまな形に変容し増殖する謎のプロジェクト。それは「シネマの倒錯的再創造」か、「ポスト・ヒューマンな表現」か? 〈音から作る映画〉その可能性の中心について、これまでの上演記録など参考映像を見ながら話し合います。

登壇:佐々木敦、土居伸彰、宮沢章夫、七里圭
主催:charm point
助成:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)

関連イベント

「映画以内、映画以後、映画辺境」と「音から作る映画」のこれまで展

2014年から作品発表や催しが始まった「音から作る映画」プロジェクトと連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」。その4年以上に及ぶ足取りを記録写真と貴重な資料で振り返ります。

2018年2月14日(水)~26日(月)
入場無料
会場:UPLINK GALLERY(1F)

「映画以内、映画以後、映画辺境」

公式サイト




関連情報

七里圭監督最新作『あなたはわたしじゃない』&特集上映

3月3日(土)〜3月16日(金)連日21時10分~
新宿K’ s cinema

『あなたはわたしじゃない』

3月3日(土)~10日(土)、16日(金)

あなたはわたしじゃない

監督:七里圭
テキスト:新柵未成
出演:青柳いづみ 長宗我部陽子 黒田育世 安藤朋子 川口隆夫 飴屋法水
撮影:高橋哲也 村上拓也 河合宏樹 本田孝義
録音・音響:宇波拓
音楽協力:池田拓実 多井智紀 西村直晃 檜垣智也
製作・配給:charmpoint
制作協力:飛山企画
助成:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)
2018年/90分/HD

『あなたはわたしじゃない』予告編

特集上映「音から作る映画」

▼3月11日(日)
『Music as film』(2016/56min/HD)
特別上映:『DUBHOUSE』(2012/16min/35mm)

▼3月12日(月)、13日(火)
『サロメの娘 アナザサイド(in progress)』(2016/68min/HD)
特別上映:『To the light 1.0』(2014/3min/HD)
     『To the light 2-Z』(2018/10min/HD)

▼3月14日(水)、15(木)
『アナザサイド サロメの娘 remix』(2017/82min/HD)

公式サイト

キーワード:

七里圭 / 佐々木敦


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